2012年10月07日

Coffee Breakヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記406 罰の選択(第Uサムエル記24章11節〜13節)




 朝ダビデが起きると、次のような主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。(第Uサムエル記24章11節)
 「行って、ダビデに告げよ。『主はこう仰せられる。わたしがあなたに負わせる三つのことがある。そのうち一つを選べ。わたしはあなたのためにそれをしよう。』」(12節)
 ガドはダビデのもとに行き、彼に告げて言った。「7年間のききんが、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたは仇の前を逃げ、仇があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めて下さい。」(13節)


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 聖書の神は、おうおうにして、「峻厳な方」だと思われてしまいます。人の罪に対して厳しく反応されるからです。アダムとエバの話からして、私たちは、楽園追放は重すぎる罰ではないかと思いたいのです。確かに、神様の命令にそむいたのです。命令と言うより、言いつけと言った方が良いかもしれません。それで、やっと目が開いたばかりの、裸のアダムとエバを楽園から追放されるのです。毛衣を着せて下さったとは言え、神の守りの中でぬくぬくと何不自由のない生活をしていた二人は、のろわれた土地に出て行って、顔に汗を流して働かなければならなくなったのです。これは、たんに「追放」の罰ではありませんでした。楽園の外に出たために人間は「死ぬ者」となったのですから、「死刑宣告」に等しいとも言えます。(創世記3章)

 ノアの洪水も、ノアさんとその一家と動物たちがサバイブする、「ほっとする」話ではありません。確かに、激しい洪水が地上を襲ってすべての人も動物も死に絶えるほどの災害の中で、けなげに生き残った一家の話は、どんなファンタジーよりもファンタジックで、どのようなドキュメンタリーよりも、迫力のあるスリリングなストーリーです。
 私たちはふつう、危機にある人間が自分の力の限り、知恵と力を使って生き抜く話に感動します。でも、ノアの話では、そのような人間の力を確認してカタロシスを得ることはできません。そもそも、自然の猛威ともいうべき大洪水は、神様が「全人類を滅ぼすために」起こされたと明記されているのです。ノアの一家が箱舟に避難して生き延びたのは、ノアの必死の努力でも生命力の発露でもなかったのです。神様はノアが、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であり、神とともに歩んでいた(創世記6章9節)ので、彼とその一家に憐みを掛けられたのです。

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 神の罰の厳しさは、モーセやアロンにも及んでいます。モーセは、たった一度、神のご命令に反してしまったために、神から、ヨルダン川を渡ってカナンに入ることはできないとの宣告されてしまいました。(民数記20章10節〜13節)
 また、アロンのふたりの息子ナダブとアビブは、神の前にささげる火の香を間違ったために、神から火が出て焼け死ぬことになりました。(レビ記10章1節)
 真心から神に仕える人たちの、ささいな(と私には思えるのですが)過ちをも見逃されない、このような方が聖書の神だと、私たちが思わされる箇所です。
 事実、聖書は、神の恐ろしさを、神の愛と同様、知らしめているのでしょう。

 もしも私たちが、神の言いつけを守らず、適当にやっていても、愛してくださると言うのであれば、そもそも信仰の意味はないでしょう。イエス様の「十字架」も無意味になってしまいます。
 どんなに鞭をくれても、どのように愛しても、どのように憐れんでも、恵んでも、祝福の恩恵にあずかっても、懲りずに罪に戻って行く私たち、箸にも棒にもかからない私たち人間を救うために、結局は神ご自身が犠牲になって下さったと、私たちキリスト者は、神を賛美し礼拝するのです。

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 罰は、神が人を導くためにお選びになった人々(器)には、より厳しいと思われます。
 ダビデのひとりよがりに、三つの罰を選ばせると仰せになった神の反応は当然です。ききんか、敵の襲撃か、疫病か。
 三つも選択の余地があるなんて、やっぱり神様はダビデには優しいと、私など思うのですが、しかし、もちろん、王である立場で、ダビデは苦慮したでしょう。






posted by さとうまさこ at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする