2012年10月08日

Coffee Breakヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記408 主の手に陥る(第Uサムエル記24章13節〜17節)



 ガドはダビデのもとに行き、彼に告げて言った。「七年間のききんが、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたは仇の前を逃げ、仇があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めて下さい。」(第Uサムエル記24章13節)
 ダビデはガドに言った。「それは私には非常につらいことです。主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手に陥りたくありません。」(14節)


 ダビデは国王です。王は国の安全・平和や国民の幸せに対して責任があるのです。それは、どのような時代の王でも、建前としては必要だったのです。たとえ、専制が当たり前、王たる者の目的は、自分の権力の安泰と一族の繁栄、国の拡張であると思っていたとしても、そのために、国民に対してなんらの見返りがなければ、国は立ちゆきません。

 三つの選択のうち、ダビデは、「人の手に陥ること」を、まず、除外しました。仇に追い回されて逃げるのは、ダビデがかつて、何度も経験していることです。ダビデがサウル王の手から、逃げ回ったのは、少なくとも十年以上の期間でした。狭いカナンで、よく十年間逃げ続けられたと感心するのです。まさに神様が働かれて、神様に選ばれたダビデは、その守りの中で逃げ続けることができたのです。しかし、当人が逃げている時には、そのようなことはわかりませんから、さぞ、苦しかったことでしょう。
 自分の息子であるアブシャロムから逃げるのは、もっと複雑な葛藤だったに違いありません。

 ダビデは、そのように人に追われるのは願い下げにしたい気持ちだったでしょう。今の言葉を使えば、トラウマでしょうか。それは、お医者さまや薬がまるで無意味なほど、心の深いところを傷つけていたでしょう。

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 飢饉と疫病は、神の手のなさることです。ダビデは、むしろ主(神)の手に陥ることを願ったのです。(14節)

 主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み(出エジプト記34章6節、民数記14章18節)と、主ご自身が宣言しておられるのです。ダビデ自身が、パテシェバ事件などで主のあわれみを、十分経験していたはずです。

 すると、主は、その朝から、定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。(24章15節)
 御使いが、エルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそうとしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」
 主の使いは、エブス人アラウナの打ち場のかたわらにいた。(16節)


 疫病が今日の医学でなんと呼ばれる病名のものかは、わかりません。しかし、有効な薬もない時代、それはたちまちのうちに大勢の人を死に至らせたのです。ダンからベエルシェバまでとは、イスラエルの南端から北端までを指すことばです。
 わざわいを運ぶ御使いは、エルサレムの郊外のアラウナという人の打ち場まで、近づいていたのです。エルサレムが滅ぼされることは、ダビデ王朝の崩壊を意味します。その時、主は御使いに、「もう十分だ。手を引け」と命じられたのです。

 目の前まで疫病が迫り、民が苦しみ死ぬのを見たとき、ダビデは、打ちのめされ、心から悔い改めました。

 「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」(17節)







posted by さとうまさこ at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする