2012年10月10日

Coffee Breakヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記410 疫病の原因と結果(第Uサムエル記24章15節〜17節)



 すると、主は、その朝から、定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。(第Uサムエル記24章15節)
 御使いが、エルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそうとしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」
主の使いは、エブス人アラウナの打ち場のかたわらにいた。(16節)
 「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」(17節)


 私が聖書を本気になって読み始めたとき、しばらくは、喜びより、抵抗感のほうが強いと思われました。確かに、良い言葉が書かれていると感動するのです。私の目にはあなたは高価で尊い(イザヤ43章4節)と、神様が見て下さっていると聞いて、感動しない人はいるでしょうか。すばらしい説教と御言葉(聖書箇所)とか結び付けられて語られ、得も言えぬ幸せ感とともに教会をあとにする日曜日、これは、クリスチャンの特権だとさえ思ったものです。
 そのイザヤ書43章でさえ、その前後を読むと、直接的には、「私のことでない」とわかるのです。もう少し学ぶと、聖書のこの箇所は、神の選びの民イスラエルの苦難についての、神の預言ですから、少なくとも一行だけ取り出して、だから、「あなたも神さまに愛されているよと、思うのはナイーブすぎるよね」と、考えられるのです。
 もちろん、神は永遠から永遠までを現在として存在され、神にとって、この時(紀元前八世紀頃)イスラエルを救うこと、神の救いのご計画を遂行することは、まさに、二十一世紀を生きている私たちの救いのためであったのです。つまり、イザヤに告げられた神さまのイスラエルへの愛は、私への愛だと考えて間違いないのではないでしょうか。ただし、それはこの瞬間、空腹の私に、すぐさまパンを下さることでしょうか。たとえば、受験に失敗して自尊心を傷つけられ落ち込んでいる子どもに、すぐさま、もっと良い学校への合格という補償作用を、保障して下さるものでしょうか。

 この前ページ・イザヤ書42章で、神は、民の苦しみの原因を明言しています。

だれが、ヤコブを、奪い取る者の手に渡し、
イスラエルをかすめ奪う者に渡したのか。
それは主ではないか。
この方に、私たちは罪を犯し、
主の道を歩むことを望まず、
その教えに聞き従わなかった。(24節)


★★★★★

 聖書の神は、私たちの望むことだけをして下さるのではなく、私たちに都合の悪い出来事をも下されるお方なのです。
 ただ、第Uサムエル記で、ダビデに下る罰はおおむね因果応報です。しかし、私たちの回りでは、因果応報とは思えない不幸もたくさん起こっています。不慮の事故にあった人に対して、多くの人は思うのです。「どうして、あの良い人があんな目に遭うの。死んでしまえばよいような悪い人間もいっぱいいるのに」。
 去年の東日本大震災のときにも、「こんなことが起こるのに、神がいると言うのか」と、メールを下さった方がいました。また、わざわざ外国からやってきた自称「預言者」が、「日本人よ。悔い改めよ。これは日本に下された神の罰だ」と、触れ歩いたとも聞きました。

 疫病は、ダビデの罪に対して主が下された罰でした。しかし、このダビデへの罰のために、七万人の民が死んだのです。
 ここで、私たちは躓くでしょうか。

 七万人の無辜の民を殺したのは、神だと叫ぶでしょうか。ダビデに責任を帰すでしょうか。





posted by さとうまさこ at 09:17| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする