2012年10月12日

Coffee Breakヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記412 「身銭を切る」(第Uサムエル記24章24節)




 ダビデがアラウナから土地を買って祭壇を築いた話は、私たちに多くのことを、想起させます。
 その一つは、お金を払うという行為です。私たちは、できることなら「安上がり」で済ませたいと思う傾向があります。自分が安く値踏みされるのは我慢できないのですが、他人の物はただづかいをしたりするのです。

 繁華街や観光地などで、道行く人に、名産品の果物などがタダで配られたり、ちょっとした汁物が小さな発泡スチロールのどんぶりで振る舞われる様子が、ときおり、テレビニュースに出てきます。大勢の人がその前に並んで、小さな包みを無料で受け取っているのです。その場にいたら、たぶん私も同じことをするでしょう。ところが、ある評論家の女性が、このような日本人について、「見苦しい」と論評しているのを読んで、「言われてみればそうかなあ」と思ったのです。貧しい国ではありません。みんな飽食していて、たいていの家の冷蔵庫は満杯で、時々整理して捨てられる食料があるくらいです。それなのに、「ただ」と聞くと、果物でもトン汁でも甘酒でも花でもティッシューでも、「もらっておこう」とする動機は、どのようなものでしょうか。

★★★★★

 「身銭を切る」という慣用句があります。近頃は、めったに聞かないし、言わない言葉です。なにしろ、いまは、完全な貨幣経済の世の中で、空気と太陽の光以外は、お金を払っているといっても過言ではないのです。金を払わないでは生きて行けず、ふつう金を払うのは自分ですから、みんな「身銭を切っている」ような気分かもしれません。
 これは、多分、人間関係の上下や貧富がはっきりしていて、人間同士も鷹揚(おうよう)だった時代、人のおごりで食べたり、ただで友人の家に居候ができたころの言葉でしょうか。
 そのような時代でさえ、人間として、本当に必要な時には、「身銭を切る」ものだと、教えたのでしょう。
 人が、たとえ、ただで下さると言っても、支払わなければならない時がある。無料入場ができたとしても、もし寄付金箱が用意されていたら考えるべき「時」があると、私たちは教えられていないでしょうか。
 たとえば、ヨーロッパの立派なカセドラルや教会の多くは、無料で内部を見学できます。何百年も美しく維持されてきた荘厳な礼拝堂に入って、たとえ、クリスチャンでなくてもふしぎな静謐に胸打たれて出てくる人は多いと思います。しかし、その入り口脇にある献金箱にいくらかでも、献金を入れる人はどれくらいいるでしょうか。
 神はお金のない者から、むしりとる方ではありませんが、もし、ふところに豊かな外貨を持っていて、今夜どこかの三ツ星レストランに行くことができる人なら、価値ある文化財に対してだけでも、それ相応の貢献をする必要があるでしょう。

★★★★★

 見える物に対しても支払わないくらいですから、音楽や美術・文学などの目に見えないものに対して、支払いを惜しむ気持ちは一般的です。有名歌手のコンサートやCDは売れるのですが、支払ってもらえる人たちは、ほんのひと握りです。多大の費用と人生と、なによりも才能をつぎ込んだ、まっとうな音楽家の多くが貧しいのだと聞きます。
 有名な先生になると、ワンレッスンウン十万円などと、話題になります。もちろん、それほど高いとレッスンを受けられる人は限られてきますが、先生を非難することは出来ません。高いレッスン料を払える人が払うことで、確かに「音楽」の世界が支えられ、引き継がれていくのです。もちろん、音楽に限りません。

 「身銭を切って」打ち込むのは、多くを学ぶ良薬だと思います。真剣に向き合うからです。裏を返せば、身銭を切らない、痛みを伴わない投資しかしないでいては、真剣勝負とは言えないのではないでしょうか。

 しかし王はアラウナに言った。「いいえ。私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シュケルで買った。(第Uサムエル記24章24節)

 ダビデは王でした。王ならば、アラウナの申し出通り、アラウナの土地をただで接収して祭壇にすることもできました。アラウナは、少なくとも寄進を申し出ているのです。

 ダビデはそこを買い取りました。神に対する真摯な気持が、そうさせたのです。






posted by さとうまさこ at 09:26| Comment(2) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする