2012年10月25日

Coffee Break歴史の書424 T列王記(11)ダビデからソロモンへ(T列王記2章10節〜12節)



 
 こうして、ダビデは彼の先祖たちとともに眠り、ダビデの町に葬られた。(T列王記2章10節)
 ダビデがイスラエルの王であった期間は四十年であった。ヘブロンで七年治め、エルサレムで三十三年治めた。(11節)
 ソロモンは父ダビデの王座に着き、その王位は確立した。(十二節)


           ※第Uサムエル記5章4節5節参照、

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 旧約聖書の偉大な登場人物を五人挙げるとしたら、ダビデもその中に入るでしょう。ある牧師が列挙されたのは、アブラハム、モーセ、サムエル、ダビデ、イザヤでした。聖書を読むにつれ、私も最近、ますます「そうだ」とうなずいています。
 この五人はいずれも、旧約聖書の中で、たくさんのページを費やして語られています。神の国の歴史の中で、どうしても欠くべからざる大きな使命を、神から与えられ、召命を受けて登場してくる者たちですから、当然です。彼らは古代イスラエルのエポックメーカーです。しかし、いわゆる「人間の英雄」ではありません。

 
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 アブラハムは、神から「カナンを与える。あなたの子孫を空の星のようにしよう」との約束を与えられました。「あなたの子孫から全人類が祝福に入れられる」(創世記12章2節3節、15章5節)と言う大きな約束です。けれども、一遊牧民であったアブラハムに、その本当の意味はわかったでしょうか。今日、完結した聖書を読んでいる私たちが考えるような意味での「全人類の祝福――神ご自身でもあられる(三位一体の神、神の子)イエス・キリストの罪の贖いによって、信じる信仰だけで罪が許され、ふたたび楽園に連れ戻していただけること」を、理解していたでしょうか。

 アブラハムは、一を聞けば十を悟るような「英才」だから、用いられたのではなさそうです。四千年後の、「空の星のようにふえた」私たちの姿を想定できたのではないのです。アブラハム個人は、人柄のよいまじめな遊牧民でした。彼にとって、長い間、神の約束とは、「彼の息子」でした。しかし、彼は一族の繁栄、父として多くの息子を手元に置きたいと言った当時の社会通年を超えて、神のご命令に従える人でした。
 サラが死んだあと、彼は再婚し、イサク以外にも、多くの子どもを得たのですが、すべて財産分けをして遠くへ行かせています。神がイサクを選んでおられ、イサクに重大な使命があることを、理解していたからです。神のご計画の最後までを聞き、理解し、納得しなければ動かないというのではありません。

 アブラハムは、人間の理屈を超えた神のご命令に従ったのです。もちろん、彼が、そのようにしだいに強い信仰の人になるまで、神は愛をもって、多くの祝福をもって、彼を根気強く導いておられます。

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 モーセも巨大です。彼がエジプトの王女に拾われて王宮で育てられる「運命」は数奇ですが、そのような境遇自体は、「ありえた」ことかもしれません。人間の歴史を通じて、わずか100年くらい前までは、今の先進国のように、親が子どもを成人するまで育てるのが当たり前の通念などなかったのです。口減らしのためまだ幼いのに売られたり、生まれたばかりで捨てられたり、捨て子を哀れに思って拾い子したりする話は、案外一般的だったのです。

 モーセは、エジプト人の奴隷の監督を殺し、王子の身分を捨ててエジプトから砂漠へ逃げるのです。エジプトから逃げて、ミデヤン人の祭司の家でその娘と結婚し、平和に暮らしていたのです。もう、若くもありませんでした。わずかの羊の世話をして、「死に体」とも言えなくないひっそりした生活ですが、モーセ自身は満足していたはずです。
 そのようなモーセに、神ご自身が顕現され、声をお掛けになるのです。(出エジプト記3章)エジプトに戻って、同胞のへブル人すべてをエジプトから連れ出せと、途方もない命令です。
 モーセは、自分が口下手であること、パロ(エジプトの王)や同胞であるへブル人自身を説得する自信がないと、強く尻込みするのですが、神は容赦なさいません。最大限の援助と支えを約束されて、結局、モーセは、エジプトに戻って行くのです。

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 聖書の世界でも、もちろん、「我こそは」と名乗って、手を上げて、前に出ようとする者はたくさん登場します。
 ダビデ王朝でなら、アドニヤやアブシャロムは、その典型です。ヨアブだって、「もしかすれば」と、千載一遇のチャンスをうかがっていたのかもしれません。だからこそ、ライバルになりそうなアブネルやアマサを虐殺したのでしょう。
 しかし、どのように能力があっても、権力の近くにいて、名声があっても、チャンスさえあっても、王にはなれなかったのです。

 王は神が選ぶものと、ダビデの物語は念押ししているかのようです。
 ソロモンに王位が譲られたことは、読者にとって多少、腑に落ちないとしても、私のようにバテ・シェバに好意をいだけないとしても、これを神が、「良し」とされたのだと、思うのです。
 ダビデの末に、イエス様をお迎えするという「救いのご計画」は、成就したのですから。







posted by さとうまさこ at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする