2012年11月01日

Coffee Break歴史の書431 T列王記(18)夢でお語りになる神(T列王記3章5節)



 その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」(T列王記3章5節)

 王位を受け継いだソロモンは、それまでイスラエルで行われたことがないほどの数の全焼のいけにえ(ささげ物)をささげました。ギブオンの「高き所」での、この神礼拝は、イスラエル中の話題になったことでしょう。民は、王の偉大さと、その偉大な王に油をそそがれた神の権威に改めてひれ伏したことでしょう。
 これは、政治的な王権誇示のデモンストレーションとしても、十分意義があったことでしょう。ですが、ソロモンの心は、そのような政治ショーとはかけ離れた深い信仰に根差していました。
 「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Tサムエル記16章7節)方なのです。
 主がその夜、ソロモンの夢に現れてお語りになったのは、主がソロモンの信仰にお応えになったのです。
 「あなたに何を与えようか。願え」と主から言っていただけるなんて、まさに信じられないような栄誉ですね。まさに、夢のような話です。

 しかし、もちろん、聖書の中では特例的な出来事とは言えません。
 神様は、ヤコブの夢(創世記28章12節)に現れておられます。新約聖書では、イエス様を身ごもったマリヤの婚約者ヨセフに現れて、その懐妊が聖霊によるものと伝えています。(マタイの福音書1章20節)同じマタイの2章13節では、ふたたび、ヨセフの夢のなかで、ヘロデの赤ん坊虐殺を知らせてエジプトに逃げるよう警告しています。神さまが、絶対に必要だと思われる人に、また、その必要があるときには、夢に現れて下さるのでしょうか。御声を聞かせて下さるのでしょうか。

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 私たち信仰者は、何としても、神さまの御声を聞きたいと思うときがあるのではないでしょうか。選択に迷う時、行き詰まったとき、苦悩の中にあるとき、未来に大きな計画を描くとき、夢にでも神さまが現れて下さったら…、そして、行くべき道を教えて下さったらと思わないでしょうか。

 クリスチャンは神秘主義者ではありませんし、そもそも、聖書の神様は神秘的な存在でもありません。まさに「私はある」(I AM WHO I AM)(出エジプト記3章14節)と自己紹介された方です。私たちが自分の存在と、宇宙万物、そして毎日食べる小さな食物一つでさえ、真摯な気持で見つめるなら、すべてを存在させておられる神さまがいらっしゃると、恐れをもって首を垂れるのです。
 そのように恐れ、崇め、讃えている神様が直接私に語りかけて下さらないだろうか、もっと神さまと親密になれないかしらと、思うことは自然ではないでしょうか。
 
 しかし、聖書の記録に、直接神様が夢に現れて親密に語って下さった者、その御告げや御声を聞かせていただいた預言者のすべてを数えても、何百人もいるわけではありません。

 
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 このブログにリンクを貼らせて下さっている佐々木先生は、その著述の中で、「完結した聖書」がある今日、私たちが、直接、神様の御声を聞きたいとを軽々しく願うことを戒めておられます。神の啓示は、いまや、聖書にすべて示されているからです。まず、「聖書を調べよ」なのです。
「おかしなペンテコステ信仰、花咲いた雑談」
   http://pentekosute.seesaa.net/

 佐々木先生は、もちろん、今日でも、直接神がお語りになる可能性を否定しておられるのではありません。全知全能の神様は、どのようなこともおできになる方だからです。

 ともあれ、ソロモンの礼拝に、神様はお答えになったのです。

 ソロモンは言った。「あなたはあなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心をもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。(6節)
 わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代って、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。(7節)
 そのうえ、しもべは、あんたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。(7節)
 善悪を判断してあなたの民を裁くために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(8節)
 この願い事は、主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。(9節)







 
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2012年11月02日

Coffee Break歴史の書432 T列王記(19)「小さな者です」(T列王記3章5節7節)




 ソロモンはイスラエルのダビデの王位を継ぎました。ダビデは四十年間イスラエルの王として、イスラエルを治めました。(T列王記2章11節)奴隷の民がエジプトから連れ出されて荒野をさまよい、カナンに入り、統一王国が建てられるまで、イスラエルは、紆余曲折の多い、波乱の道を歩まなければならなかったのです。けれども、とにかく、サウルの時代に統一王国が形成され、ダビデがそれを盤石なものにしました。

 王制自体は、最初、かならずしも、神・主の御心ではありませんでした。祭司エリの息子たちやサムエルの息子たちでさえ、わいろを取り裁きを曲げ、神の道を行わないとき、民は、イスラエルに号令し、武力と権力をもって民をまとめ、外国と戦ってくれる王を求めたのです。(Tサムエル記8章)
 神さまが、人間の現実に歩み寄って下さって、サウルを選び、サウルに代わる者として、ダビデに油をそそがれたわけです。ダビデは神の御心にかなう王でした。同時に、王国の王という地位は、世俗的にも人間的にもきわめて魅力的なものだったのでしょう。アブシャロムやアドニヤがその地位を獲得しようと画策しましたが、最後に、後継者となったのはソロモンでした。

 結局は、神がソロモンを選ばれたのです。
 神の選びがなくては、何もできないことを、ソロモンはよく知っていました。ギブオンでの一千頭のささげ物は、ソロモンの神への大きな感謝と献身の表明でした。

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 その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」(T列王記3章5節)
 わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代って、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。(7節)


 私は、個人的にはバテ・シェバを好きにはなれませんが、しかし、彼女は、たんに、「王を籠絡した魅力的な女」と言うだけではなかったと思います。彼女は、宮廷で力を蓄える政治的な眼力と、有力な他の妃の王子たちをしのいでソロモンに王位が譲られる手配を整える知恵の持ち主だったのでしょう。さらに、バテ・シェバがどんなに策を弄しても、肝心のソロモンが暗愚(あんぐう)では、人はついて来ません。また、地位を手に入れてもそれを生かすことは出来ません。
 バテ・シェバは、ソロモンを一流の王になるよう教育したのでしょう。一流の学者(神学者)や、知恵のある者を彼の教師にして、教育したに違いないのです。
 
 古代イスラエルでは、学びの最初に来るものは、律法です。まさに、モーセが申命記で命じているとおりです。

 これを(律法を)あなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっている時も、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。(申命記6章7節)

 主が、「あなたに何を与えようか。願え。」と仰せになったのを聞いて、ソロモンはいっそう、ゆるぎなくへりくだりました。
「私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。」

 私たちクリスチャンは、「自分は小さな者です」とへりくだります。また、日本の伝統的な倫理では、謙譲や謙虚さは美徳とされています。けれども、だれに対して言われているのかがはっきりしなくては、言葉はただの「飾り文句」です。神を見上げるとき、おびただしい民の上に立っていても、「小さい者です」と言えるのだ、とソロモンは、教えてくれます。




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2012年11月03日

Coffee Break歴史の書432 T列王記(20)「出入りするすべを知りません」(T列王記3章5節7節)



 聖書を読んでいると、一見何でもない言葉なのに、つまずくことがあります。
 「私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。」(T列王記3章7節)の「出入り」にも、私はひっかかってしまいました。もちろん、前後を読めば何となく理解できるのです。そして、聖書に限らず、文章というものは前後を含めて一連の文意の中で意味をもつものです。もっと言えば、文脈のなか、コンテキストの中で読み取るので、事実私たちのだれもが、そうしていると思います。

 反面、意味がもう固定されている単語もあります。ある世界では、そのように使うと決まっていることばです。
 ある英語の先生が書いておられたのですが、囲碁は「打つ」、将棋は「指す」と言うそうです。同じように見える盤上のゲームでも、決まった言い方があるのです。
 聖書では、恵み、あわれみ、慈しみ、祝福、のろい、感謝など、クリスチャン同士なら、その意味が通じ合います。手紙の末尾に、祝福を祈りますと書いて来られたら、「ああ、祝福を祈って下さっている」と思って、喜びに満たされるのです。違和感はありません。でも、相手がまったく、キリスト教に触れたことのない方なら、「ご健勝を祈ります」などと書くことになります。

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「出入りするすべを知りません」は、クリスチャン用語と言えるほど、聖書に頻出して来ませんが、つまずく価値がありそうです。
 モーセは、死を前にした、決別演説の中で語っています。

「私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、『あなたは、このヨルダンを渡ることができない』と言われた。」(申命記31章2節)

 また、ユダ族のエフネの子カレブは、相続地の割り当てのとき、ヨシュアにヘブロンを割り当ててくれるよう要求するのです。(ヨシュア記14章6節〜14節)その時、彼は言います。

 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこの方、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。(10節)
しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(11節)


 新約聖書のヨハネの福音書10章9節にも、イエス様のことばとして、つぎのようにあります。

 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また、安らかに出入りし、牧草を見つけます。


 空知太栄光キリスト教会の銘形先生の解説を拝見すると、それは原語(ヘブル語)で、「出る」と「入る」の組み合わせですが、直訳するのではなく、「すべての営みにおいて」と広く解釈できる言葉だそうです。いわば、ヘブル語の慣用句なのでしょう。じじつ、同じ個所を、共同訳は、次のように訳しています。

「もはや、私の務めを果たすことはできない」(申命記31章2節)
「モーセの使いをしたあのころも、いまも変わりなく、戦争でも日常の務めでもする力があります。」(ヨシュア記14章11節)


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 共同訳では、T列王記3章7節のソロモンの言葉は、次のように訳されています。

 しかし、私は取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。

 小さな箇所につまずく私に、読者が困惑されることがありませんように!祈りつつ・・・。
 今日も、祝福がありますように。
 


銘形先生のサイト
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E5%88%97%E7%8E%8B%E8%A8%98






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2012年11月04日

Coffee Break歴史の書433 T列王記(21)ソロモンの願い事と神のお答え(T列王記3章5節7節〜14節)




 「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代って、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで出入りするすべを知りません。(T列王記3章7節)
 そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。(8節)
善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(9節)
 この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。(10節)


 ソロモンがギブオンで一千頭の全焼のいけにえをささげた夜、神が夢に現れて、「あなたに何を与えようか。願え。」(3章5節)と仰せられたのです。
 それに対するソロモンの答え――願い事は、善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心でした。

 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちを求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、(11節)
 今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断力を与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。(12節)
 そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。(13節)
 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたも私の命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」(14節)


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 神さまがソロモンの願い事を良しとされた理由は、ソロモンが自分の長寿や富や敵のいのちを求めず、王として、正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたことです。王は国の最高位にあり、国の全権を握っている政治家でもあるのです。それだけに、多くのことが王の決定にゆだねられ、その結果、国の命運から、民の幸せまでを左右するのです。

 多大の権力を持っている古代の王であっても、王の立場の万能性とともに、限界はわかっていたでしょう。
 多くの王は、その立場の限界を補強するために、いっそうの富と敵のいのちを望んだのです。多くの富を蓄え、多くの敵に勝つほどに、王権や王国は栄誉と安定をもつように思えるのです。
 同時に、王は長寿を求めるのです。すべてを手に入れた人間にとって、なお敵と呼べるものは、「死」だからです。エジプトではパロや上流階級の人は遺体をミイラにして保存しました。いつの日か、その肉体に、ふたたび、魂が帰って来ることを期待したのです。秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて、中国の辺境に、人を遣わしたのも有名な話です。
 聖書でも、バテ・シェバが病床のダビデ王にあいさつをしています。
「王さまがいつまでも生きながらえられますように」(T列王記1章31節)

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 現代の先進国に住む私たちにとっても、長寿が最大関心事になっている観があります。衣食住の心配がなくなり、どんなに長生きしても年金で老後が保障されてくると、心配は、病気と老いと死です。もし、神さまがある人に現れて、「願え」と仰せになったら、たぶん、ほとんどの人は不死を願うのではないでしょうか。もちろん、「若々しくて、元気で」という条件もつけるでしょう。

 老いや死は、まだ先の先と感じている人は、富を願わないでしょうか。昔の王のように敵のいのちを欲しないまでも、自分の行く手を遮る者をねじ伏せたいと願うでしょう。

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 今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断力を与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。(12節)
 そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。(13節)


 富や敵のいのちや長寿ではなく、善悪を判断して聞く力を求めたソロモンを神はお喜びになりました。そして、求めなかった富と誉れをも与えようと言われたのです。
 ただ、それには、条件がありました。

 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたも私の命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」(14節)

 ソロモンは、ただの王さまではありません。神の民イスラエルの王なのです。その末に、救い主のご降誕を見るダビデの家のかしらなのです。神のしもべであり続けることが、求められているのです。




 
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2012年11月05日

Coffee Break歴史の書434 T列王記(22)契約の箱の前に立って(T列王記3章15節)



 ソロモンが目を覚ますと、なんと、それは夢であった。そこで、彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげ、すべての家来たちを招いて祝宴を開いた。(T列王記3章15節)

 Coffee Break歴史の書431で書いたように、聖書にわざわざ記録されている夢は、記録に残されるだけの意味があるのです。私たちが、ときどき軽い話題に使う「昨夜見た夢」とはわけがちがいます。

 ソロモンは目覚めて、さぞ驚き、感激したのでしょう。すぐにエルサレムに戻りました。エルサレムには、ダビデが持ち帰った契約の箱がありました。

 契約の箱(神の箱)とは、十戒の石の板とマナのつぼと芽を出したアロンの杖が安置されている箱です。神はモーセに十戒を下さった時、まず、契約の箱の作り方を指示しておられます。(出エジプト記24章10節〜22節)
 当時も、今も、罪で神との間を隔てられた人間は、直接、神とお会いしてお祈りしたり、お交わりしたりすることができません。しかし、イスラエルの民と契約を結んでくださったとき、神は、ご自分の選びの民のために、「契約の箱の上にある二つのケルビムの間で語ろう」と約束して下さったのです。(出エジプト記24章22節)
 もちろん、契約の箱が安置された至聖所まで入ることができるのは、大祭司だけですから、それは非常に限られたお交わりですが、人間が、神にお伺いできる場所が与えられたのは、大変な恩寵でした。

 ダビデは、祭司ではなかったのですが、神に油注がれた王でしたから、エボデを着て神にお伺いを立てることがあったのです。ソロモンもダビデのように、契約の箱の前に立ったと考えられます。

「全焼のいけにえ」と「和解のいけにえ」をささげるのは、幕屋での正式な神礼拝として当然の手順でした。これについては、Coffee Breakモーセ五書の記事をお読みいただければと思います。

Coffee Breakモーセ五書155「全焼のいけにえ」〜Coffee Breakモーセ五書159「いけにえと幕屋」
http://vineyard1.seesaa.net/article/182303124.html?1352066256
から
http://vineyard1.seesaa.net/article/182912583.html

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 神さまとの関係がへだてられてしまって、人が、そのままでは神さまとお交わりができないというのは、今も事実です。
 でも、幸い、私たちは新約の民です。
 私たちは、古代イスラエルの民のように、全焼のいけにえと和解のいけにえを携えて、幕屋に行き、祭司に頼んで神様に取り次いでいただかなくてもよくなったのです。イエスさまが来られて、みずから十字架にかかって血を流し、私たちの罪を贖ってくださったからです。イエス様は犠牲の羊になって下さったのです。また、イエス様は私たちのことを父なる神さまに取り次いでくださるのですから、大祭司とも呼ばれるのです。
 さらに、幸いなことは、私たちはわざわざ幕屋や神殿に行かなくても良いのです。イエス様を信じる信仰は、世界中どこにいても有効なのです。教会やカセドラルだけでなく、町の真ん中でも、辺境の地でも、とうてい神さまなどお出でにならないと思えるような戦場や猥雑な場所にさえ、神様はいらっしゃるのです。聖書の神様は、宇宙にくまなく遍在しておられる方だからです。たとえ、私がだれであっても大丈夫なのです。貧しくても、能力がなくても、病気でも、老齢でも、私たちはすべて、神様の愛の対象として神様によって造られたものだからです。
 神様は、ご自分の愛する者たちをみもとに呼び戻すため、ご自身(御子)を人間として世に降し、私たちが、「イエス様のお名前でお祈りします」と言えばよいように、救いの道を開いてくださったのです。

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 ともあれ、ソロモンは契約の箱の前に立って、精いっぱいの感謝の気持ちを、神さまにささげました。
 知恵のある王としてのソロモンの誕生です。






posted by さとうまさこ at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする