2013年12月01日

Coffee Breakセレクション8・Coffee Breakモーセ五書34、アブラハム(アブラム)創世記12章




 主はアブラムに仰せられた。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。(創世記12章1節)
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。(2節)
 あなたを祝福するものをわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。(3節)」
 
 アブラムは主がお告げになったとおり出かけた。(4節)


 
 アブラムは、のちに、神さまに名を変えていただいて、アブラハムとなる人物です。
 ノアの息子セムから数えて、十代目の子孫がアブラムでした。アブラムは父親のテラと妻サライ、甥のロト、それからたくさんの親族や使用人とハランという地に住んでいました。
 住み慣れた場所で暮らしているアブラムに、ある日、神さまは声を掛けて、神さまがお示しになる土地に行くよう命じられたのです。

 バベルの塔の建設を、中止させた神さまが、久しく沈黙を破って、人に声を掛けてくださったのです。長らく、沈黙しておられた神さまが、突然、アブラムに声をお掛けになったのは、なぜでしょう。

 バベルの塔建設を断念させられて、散り散りにされた人間は、各地で増え広がり、たぶん、塔建設当時よりさらに悪事を重ねていたでしょう。
 神様の目からご覧になると、とうてい許しがたいことがたくさん行なわれていたに違いありません。それどころか、天地万物を創造され、土のちりから人間を造り、その人間に息を吹き込んでくださった神さまを覚えている人、神さまの声を聞ける人さえいなくなってしまいそうなありさまでした。

 とうとう神さまは、人類を救う遠大な計画を実行に移されたのです。
 その計画に、選ばれたのがアブラムでした。



 アブラムは主がお告げになったとおり出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは七十五歳だった。(12章4節)
 アブラムは妻のサライと、甥のロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして、彼らはカナンの地に入った。(5節)



 アブラムは行き先もわからず、神さまの示される方向に出かけたました。住み慣れた場所を、ただ、神の声にしたがって離れたのです。自分の計画、自分の考えできちんと先を見通して動くのが、「正しいやり方」という人間的な思いを振り切ったのです。

 じっさい、神さまがお示しになった土地には、困難な兆候がありました。


 アブラムはその地を通っていき、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。(6節)


 アブラムがたどり着いた場所、モレの樫の木のところには、先住民がいたのです。





posted by さとうまさこ at 08:21| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月02日

Coffee Breakセレクション9・Coffee Breakモーセ五書36、なぜ(2010.9.28)



 アブラム(アブラハム)は遊牧民でした。アブラムと妻サライ、甥のロトは、着の身着のままの乞食のような旅ではなくて、羊を飼いながらの移動でした。
 アブラムが最初祭壇を築いたシェケムの場、モレの樫の木のところまできたとき、当時、その地にカナン人がいた。と聖書は記しています。
 遊牧民は農耕者と違って同じ土地への定着性は薄いかもしれませんが、テリトリーはありますから、アブラムはそこに長居するわけにはいかなかったでしょう。そこから、ベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。のですが、また、すぐ、ネゲブの方へと旅を続けなければならなかったのです。
 
 ただ、アブラムには確信があったはずです。もともと、神に召し出されて、そのご命令に従って、故郷を出てきたのです。その上、主は二度も彼の前に現れてくださったのです。


 じっさい、アブラムは祝福されていました。

 ネゲブのほうへ旅を続けているとき、飢饉があったので彼は、飢饉を避けてエジプトに行って、滞在することに決めました。
 その時、
彼は妻のサライに言いました。
「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということをわたしは知っている。(創世記12章11節)
 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。(12節)
 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生延びるだろう。」(13節)



 アブラムの危惧したとおり、エジプト人はサライがとても美しいのに目を止めて、パロ(エジプトの王)に推奨し、パロはサライを宮廷に召し入れたのです。
 パロは喜び、アブラムに羊の群れ、牛の群れ、ロバ、男女の奴隷、雌ロバ、らくだなどを与えました。
 アブラムは、いっぺんに豊かになったのですが、神さまが、サライが人の妻だということでパロとエジプトを、災害でひどい目に合わせたのです。
 パロはアブラムを呼びつけて、言いました。

「あなたはいったい何ということをしたのか。なぜ、彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。(18節)
 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ、今、あなたの妻を連れて行きなさい。(19節)」

 
 こうして、アブラムはエジプトから追放されるのですが、サライを返してもらった上、増えた所有物はそのまま持って出ることが出来ました。

 嘘をついて、妻がパロの宮廷に召し入れられるようなことをしたアブラムの行為は、けっして褒められるものではありません。私など、ひどい目に合わされるのは、パロではなくアブラムの方だと思うのですが、しかし、神はこのアブラムの過ちをも覆ってくださったのです。
 そのため、彼は豊かな遊牧民になってエジプトから出たのです。
 
 アブラムは「信仰の父」といわれていますが、彼の信仰に神さまもまた、答えてくださったのです。
 もっとも、この話は、一寸先が見えない道でも、神への信仰で歩み出すという従順が先にあって、その後、神さまの祝福があったという出来事です。とくに、アブラムは神さまの遠大な「救いの計画」に選ばれた人でしたから、こうした過ちに対しても、神さまはそれを益に変えてくださったのでしょう。
 信仰すれば、ご褒美に祝福があるという因果の物語ではないのです。



 祈りながらも、しばしば、信仰の確信が揺らぎ、とてもアブラムにはなれないと、心底、思う者として自戒をこめて、思うところです。




posted by さとうまさこ at 08:58| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月03日

Coffee Breakセレクション10、Coffee Breakモーセ五書41契約(2010.10・3)





 神様は四度目、アブラムを祝福されたとき、さすがのアブラムも神さまに質問をしました。すると、神様はカナンの土地を下さる。子孫を空の星のように増やしてその地を与えてくださると、約束してくださいます。
 それを信じたアブラムは、それを彼の義と認められた。のです。
 加えて、
主は仰せられた。
「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたと連れ出した主である。」


 アブラムは、また、主にお尋ねするのです。

「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」


 神様は、三歳の雌牛、三歳の雌ヤギ、三歳の雄羊を、犠牲として捧げるように言われました。

 このあとの場面は、ちょっと怪奇な雰囲気です。
 アブラムは主の命じられたとおり、三頭の動物と山鳩の親子を捧げます。大きな動物を縦に真っ二つに切って向かい合わせに置きました。
 血の臭いを嗅ぎつけて、猛禽が舞い降りてきます。もちろん、当時のことですから、一羽や二羽ではないでしょう。それを追い払うアブラム。太陽は西に落ちて、地は刻一刻と闇が降ってくるのです。
 
 神様への犠牲(のささげ物)を、猛禽に取られまいとするアブラムは、突然睡魔に捉えられ、同時に、「暗黒の恐怖が彼をおそった。」のです。

 この場面、ここまで主を信じてきたアブラムが、しつこく聞きただすことに、主はお怒りになったのかもしれない、とわたしは思います。これまで、主は祭壇を築いたアブラムを喜ばれましたが、ご自分から犠牲を捧げるよう要求されたことはないのですから。


 ここで初めて、神は彼の子孫が増えるということが、具体的にどういうことか明かされるのです。
 それは、アブラムの子孫が四百年にわたって異国で寄留者となり、奴隷となって苦しむ。しかし、神が、そこから多くの財産とともに連れ出してくださる。出エジプトの予告でした。(もちろん、アブラムには「出エジプト」の名前はわかっていません。)
 アブラム自身は、長寿をまっとうして平安の内に死に、先祖のもとに帰っていく。
 


 神が告げておられる間に、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。(創世記15章17節) 


 神の現れのクライマックスです。

 神はアブラムと契約を結んで、仰せられるのです。


「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エプス人を。」(18節〜21節)
 


 神様から、これほど具体的に、自分と自分の子孫の将来像を告げられたアブラムの心境に大きな変化が起こったのは、事実でしょう。
 アブラムは、それでも、自分の一番聞きたかったことに、答えていただけませんでした。深い眠りと恐怖の中では、神様の声を恐れを持って聞くばかりだったのです。
 アブラムの一番の疑問、「私には子がありません。」という反問に、神様はまだ、お答えにならなかったのです。


 アブラムは、自分の体験を妻サライに話したことでしょう。
 サライは夫の苦悩を理解しました。子どもが生めない自分を責めたでしょうか。当時の習慣では、妻に子どもが生めない場合、妻は自分の召使を側女として夫に差しだしたようです。妻に子どもがあってさえ、男が妾を持つ一夫多妻の社会でした。

 サライは、自分の召使の女ハガルを夫に差し出しました。ハガルは男の子イシュマエルを産みました。
 
 これが、アブラハム(アブラム)の大きな過ちだったと言う解釈を、本で読んだことがあります。イシュマエルの子孫がアラブ人で、アラブ人は現在イスラム教徒でクリスチャンと対立しているからと言うのが、その理由です。

 しかし、わたしはそうとばかり言えないと思います。
 聖書の神は、全知全能の神様です。アブラムやサライが、どのように振舞うか、すべては織り込み済みだったのではないでしょうか。
 
 神様はハガルから生まれたイシュマエルも祝福されたと、聖書に書かれています。

 イシュマエルは父アブラハムの埋葬にも立ち会いましたし(創世記25章9節)、アブラハムの息子イサク(サラから生まれた息子)の長男エサウは、イシュマイルの娘と結婚しています。(創世記28章9節) 血縁の親戚としての付き合いもあったのです。



posted by さとうまさこ at 10:04| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月04日

Coffee Breakセレクション11、Coffee Breakモーセ五書44「サラ・ハガル関係」(2010・10・6)




 神はアダムに対し、一人の女性しかお与えになりませんでした。アダムもそれを喜んだのです。神がエバをアダムに引き合わせたときの、アダムのよろこびの声──これこそ、私の骨の骨、肉の肉。(創世記2章23節)を思い出してください。


 ずいぶん前ですが、ある生物学者が新聞に書いておられたことに、なるほどと思ったものです。その方は、聖書を引用していたのではありませんが、男女の始りを、「もともと一つの生命体であったものが、大昔に離れ離れになったので、その相手を求めて男女は引き合うのだ」と書いていたのです。むしろ、「科学的」な、その説明に、当時、クリスチャンでなかったわたしは、妙に得心したのです。そうか。男と女はもともと一つだったのだ。
 この説明は、人間以外の雌雄の存在にも適用されていたので、聖書とは意図が違うかもしれません。人間の男女が交わるのは、生殖だけが目的ではないからです。


 私たち人間は、同時に、この本来あるべき男女の姿を、逸脱して来たのだということも知らなければなりません。
 
 聖書物語を読んだ方の反応のひとつに、「性」の問題がありました。
 たとえば、「清く正しく、信仰深い」ユダヤ娘エステルが、後宮の複数の妃の一人であったと言う設定に、抵抗を感じる方がいました。
 アビガイルにプロポーズするとき、ダビデにはすでに二人の妻がいたと、わざわざ書いてあるのも、気に障る・・?
 ルツの姑ナオミが、嫁にレビラート婚を勧めることは、「麗しい」嫁思いの行為であるという意見もあります。でも、男性が一人で寝ているところに忍び入っていく場面を「麗しい」と、今の私たちは思えるでしょうか。
 私たちが認めるのは、当時はそのような行動を取っても、亡き夫の家を継ぐ息子を設けようとすることが美談だったということです。それが社会的習慣で、それに従うのはよいことだった。
 神様は、そのような間違った習慣のなかにいる不完全な人間をも用いて、人類を救おうとされたということではないでしょうか。



 神様の創造の意図に従って、一夫一婦制を守ってきた時代や国は、たぶん世界中捜しても、どの時代を切り取っても、ないでしょう。
 個人的には、一人の妻、一人の夫を生涯守った人はたくさんいると思いますが、社会全体としてみれば逸脱していました。


 アブラハムの時代、妻に子どもが生まれなければ、妻は自分の召使を夫に差し出すのは当たり前の風習だったようです。妻に子どもがいてさえ、妾や側女を持つ人はたくさんいたのです。
 ダビデもソロモンもたくさんの奥さんと側女がいました。小説にも書きましたが、これは、王さまが好色だからだとばかり言えないのです。政治的な駆け引きから、互いの娘や姉妹を相手の王様に贈るのは、当たり前だったのです。日本でも、戦国大名などそのようにして、複数の妻、多数の子どもを持ちました。江戸時代の大名などは、跡継ぎがいないと、将軍家から家を取り潰されたのですから、あと継ぎを生むのは、至上命令でした。

 政治的な必要以外に、好色な男性のために、生活力のない女が身を売る売春も歴史とともに始まったのでしょう。もちろん、みずから、身を売るような淫らな女性もいたかもしれません。
 

 問題は、このような「男女関係」がもたらしたものです。もともと、一夫一婦であるように造られているのですから、二人、三人の妻の間に、葛藤や相克があるのは当たり前です。それに、子どもの問題が絡みます。どの妻の子供も対等な権利というのでは秩序が乱れます。歴史的には、多くの場合、母親の血統、正式な結婚ほどその子供の地位が高かったのです。けれども、生まれてくる子どもにしたら、そんなことは「不公平」です。


 たとえば、日本では、戦前の法律では、嫡出子、庶子、私生児と、戸籍にも区別がありました。嫡出子とは、正式な結婚関係で生まれた子ども、庶子は妾の子ども、私生児は父親の認知のない子どもです。
 これは、戸籍に記され、その差別は、単に家庭内に留まらず、就職、進学、結婚など、人生の重大な岐路で影響したのです。どんなに父親が名門の出でも、本人が優秀でも、庶子や私生児の人生は差別された厳しいものでした。

 
 「サラ・ハガル」関係は、主人である男が、正妻の子どもを跡継ぎと決めることで、社会的に容認され、成立していたとも言えます。


 聖書では、むしろ、ハガルのほうが被害者なのですが、それでも、私たちの中に、ハガルを排斥する気分があるのは、結局、正妻サラ、その子どもイサクに肩入れする思想があるのかもしれません。
 アブラハムの信仰が試される最高の山場、神のご命令に一言も逆らわず、アブラハムが、モリヤの山で、イサクを全焼のいけにえとして神に捧げようとする場面(創世記22章1節〜14節)は、とても感動的でもあります。

 しかし、神様が、ハガルとイシュマエルの二度目の危機的な場面で(創世記21章9節〜19節)、また、ハガルに現れてくださったのは、何を意味するのでしょう。

 ハガルに対する神様のお取り扱いは、とても、意味深い箇所です。


 神様の心は、人の思いよりはるかに高く広いと知らされます。


 
 
posted by さとうまさこ at 08:08| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月05日

Coffee Breakセレクション12・Coffee Breakモーセ五書45サラの出産、46井戸を見つけたハガル、(2010,10,7・8)



★続きの記事なので同時に、二編出しました。

サラの出産

 聖書を読んでいると、どうしても「ついていけない」と思わされる箇所に出会います。
 クリスチャン用語では、「つまづく」のです。たとえば、創世記に出てくる人たちの並外れた寿命の長さとか(すでにご存知だと思います)。私たちの常識では、承服しがたいことを述べている箇所とか。

 さて、創世記16章で、ハガルはアブラムの子を産みました。これが、神の目からご覧になると、間違ったことであっても、人間の常識に従って起こったことでした。イシュマエルが生まれたとき、 アブラムが八十六歳の高齢であったとしても、認められなくはありません。



 ところが、それから十三年後、アブラム九十九歳のとき、主はアブラムに現れて告げられたのです。



 「わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 わたしは、わたしの契約を、
 わたしとあなたとの間に立てる。
 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」(創世記17章1節〜2節)

 「わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと読んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。」(4節〜5節)


 この時から、アブラムは、アブラハムと呼ばれるようになるのです。

 さらに、主(神)はこのあと、アブラハムとアブラハムの子孫との間に、永遠の契約を立てること。また、カナンの全土を、アブラハムとアブラハムの子孫に永遠の所有地として与えること。だから、アブラハムとアブラハムの子孫は、代々、神との契約を守らなければならないこと。
 そのしるしとして、アブラハムとその子孫、一族の男たちは、しもべに至るまで、割礼を受けなければならないと、仰せられた。(7節〜14節)

 主は、サライの名前も変えてくださるのです。


 また、主はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。(15節)
 わたしは彼女を祝福しよう。たしかに彼女によって、あなたに一人の男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出てくる。」(16節)
 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
そして、申し上げた。「どうか、イシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」(17節)


 アブラハムが、心の中で神のお言葉に反論したのは、信仰的には良くないことだったでしょうが、人間の常識としては当たり前のことです。

 そして、何より、驚くのは、じっさい、サラは九十歳で男の子を産むのです。
 (神に不可能はないと思っていて全知全能の神の存在をお認めして読み進めている私の、この「不信仰」を神様にお詫びしつつ書いているのですが)、イシュマエルが生まれて、14年目に、アブラハムにもう一人の息子イサクが、正妻サラとの間に生まれるのです。

 待ちに待った子どもでした。

 アブラハムとサラも驚いたでしょうが、だれよりも驚いたのは、ハガルだったかもしれません。
 神の奇跡は、ハガルの運命を変えてしまったのです。





井戸を見つけたハガル
 16章でハガルがイシュマエルを生んだとき、アブラムは八十六歳でした。次の17章で、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに、「サラが男の子を産む」と仰せになって、翌年、イサクがうまれるのです。この十三年間のアブラハム、サラ、ハガルについては、聖書に記録がありません。
 サラにいじめられて、一時的に家出をしたハガルですが、アブラムのもとに帰り、子どもを産みました。その後は、サライとの確執があったとしても、アブラムの一人息子の母親として、アブラハムの家で確固とした地位があったのではないでしょうか。

 サラもある程度、その立場を認めなければいけなかったでしょう。



 ある日の午後、主の使いがマムレの木のそばのアブラハムの天幕を訪れて、
「サラには来年男の子ができている。」と予言したのです。
 うしろの天幕の中で、それを聞いたサラは、笑ったのです。


「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(18章10節)

 主が、サラの心を見られて、「なぜ、笑うのか。」と咎められたとき、サラは怖しくなって、「私は笑いませんでした。」と打ち消しました。サラ自身が、子どもをもつ可能性など、まったく信じていなかったという描写です。

 ところが、21章でサラは、主の約束どおり、みごもり男の子を産んだのです。イサクの誕生です。
 サラがどんなに誇らしく、喜んだかは、21章の6節7節に書かれています。
 
 自分に子供がいれば、正妻サラにとって、ハガルとイシュマエルは目障りな存在です。なぜ、奴隷女とその息子に我慢しなければならない! そんな気になったのでしょう。

 イサクが乳離れの日の祝宴で、イシュマエルが弟をからかっているのを見たサラは、夫に言ったのです。


「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」(10節)

 サラがイシュマエルとハガルを14年間、いやいやながら受け容れていたのがわかります。我慢できない存在だけれど、自分が子どもを生めないのだから仕方がない! そんなところでしょうか。

 イサクを産み、無事乳離れするまでわが子が育ったのを見たとき、そのような我慢に限界がきたのでしょう。
 イシュマエルがどのようなからかいをしたのかは、書かれていませんが、アブラムは、自分の子のことなので、非常に悩んだ。ところを見ると、何が何でも追放しなければいけないほどの、悪質なものではなかったでしょう。

 ハガルとイシュマエルは、翌朝早く、追い出されるのです。アブラハムが彼らに持たせたのは、パンと水の皮袋だけでした。
 ハガルと子どもは、ペエル・シェバの荒野をさまよい歩くことになります。やがて、パンも水も尽きました。二人は、荒野で、餓死するしかないところまで追い詰められていました。


 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、(15節)
 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは、彼女が「私は自分の子どもの死ぬのを見たくない」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして、彼女は声を上げて泣いた。(16節)


 子どもイシュマエルも泣いていたのでしょう。

 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。(17節)
 行って、あの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」(18節)

 神が、ハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。(19節)


 とても意味深く、感動的な場面です。ハガルの目が開けたとは、じっさいの視力のことではなくて、心の目でしょう。神が母子を気にかけてくださったのを知った時、ハガルの心の目が開かれたのです。神は、かつて、ハガルが荒野をさまよったときにも現れてくださいました。神に信頼してまわりを見回したとき、ハガルは井戸を見つけることができた・・・。(目が開かれると言うことについて、聖書には他にもとても興味深いお話が載っています。列王記U6章8〜18もお読みください)

 この場面は、そのまま、現代の私たちの生き方にも、適用できそうです。


 荒れ野でパンも水も尽きて、もうだめだと力尽きてしまう。その時、神が声を掛けてくださる。目を開いてくださる。
 神の愛は大きく、あなたがクリスチャンでなくても、この愛は体験できるのです。聖書の主役・天地創造の神様は、もちろん、後にイエス・キリストとして、地上に降誕してくださるのですが、その二千年も前に(今から四千年も前にも)、ハガルやイシュマエル、アブラハムやサラに現れてくださったのです。

 図書館の棚に並んでいる自己啓発の本を、たくさん読むより、聖書のこの箇所は、私たちを力づけてくれないでしょうか


 それにしても、そもそも、どうして、神はハガル母子にこんな困難をお与えになったのかと、疑問に思われるでしょうか。
 サライがアブラハムにハガルを勧める前に、サラに子どもが与えられていたら、こんな問題は起きなかったではないか。

 それについては、明日、考えてみたいと思います。




posted by さとうまさこ at 10:30| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする