2014年01月01日

Coffee Break預言の書1・ご挨拶と前書き






    明けましておめでとうございます。



 旧年中はお世話になりました。訪問して下さるお一人お一人を存じ上げているわけではありませんが、星の数ほどあるブログの中から、Coffee Breakに立ち寄って下さる方がおられると言うこと、まことにありがたく、いつも感謝を覚えています。

 Coffee Breakで、聖書の通読のエッセイを書き始めてから、約三年と四カ月余りが過ぎました。一信徒にすぎない非力な私が、御言葉の森に分け入ることがどんなに無謀な試みであるのか、すぐに思い知る所でしたが、ともかくも、創世記から歴代誌までを読みました。(とても、「読み終えた」とは言えません。もう一度、もう二度同じチャンスがあれば、また書くことがかぎりなくあると思いますので)
 歴史の書は、まだ残っているのですが、ここであえて、預言書に触れたいと思いました。一か月の休みをいただいたのは、預言書を落ち着いて読んでみたいと思ったからです。

 
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 クリスチャンは、イエス・キリストに従うものです。自分の十字架を負ってイエス様について行くのです。
 しかし、弱い自分にとって、これが容易なことではないのは、クリスチャンとして少し歩み始めればすぐわかります。神に自分を支配していただくこと、神にすべてをおゆだねすること、迷う時、神にお尋ねすること、この、一見やさしいことが至難です。まして、「生きるも主のため、死ぬも主のため」などという心境は、ほど遠く感じられます。祈って主の前に静まることさえ、なかなかできないのです。静まって祈ってもお答えが得られないような気がするときもあります。

 さいわい、キリスト教信者には、聖書が与えられています。いつでも自分の手元に置いてそれを開き、神様のことばを確かめることができると、聖書を読むことを勧められています。
 これは、すばらしいことです。私の手元には、神のことば「聖書」があるのです。しかも、多くの聖書があるのです。さまざまな訳、さまざまな言葉、研究の成果の聖書が手に入るのです。私に能力と時間があれば、ヘブル語やギリシャ語の聖書を読むことも可能でしょう。多くの注解書や辞書も、求めさえすれば、簡単に手に入る時代です。

 もちろん、私はすべてを手に入れることはできません。けれども、できる所から始めようと思ったのです。ガイドブックは、聖書自身です。創世記から読んでいくように、創世記が最初に置かれているに違いない。そう思って、私は、読み始めました。ただ、読むのではなく、書きながら読むことにしたのです。
 もともと印象と感覚だけでパッパッと飲み込んで、都合の良いところだけ記憶していくような傾向がありましたから、書くのは、そのような私にとって、監視カメラをつけるようなものです。これは、良い方法だと思いました。それも自分のノートに書きつけるだけでなく、毎日ブログに発表するのです。多くの人の目に触れるかもしれないと思うと、さらに身が引き締まります。

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 安物のスニーカーに小さなバックパック、わずかな飲み物と水をもって、聖書の森への小道へ入って行った気がします。じつに、無謀な旅です。無謀な旅であることはすぐにわかりました。あわてて、上着や食料や杖や通信機を購入したような具合でした。
 さいわい、この森には、たくさんの方が歩いていました。多くの標識もありました。
 なにしろ、聖書は、書かれ始めて三千年以上が経っており、現在でもこの巨大な森を研究し、私たちを導くためにここに入っておられる方々は数えきれないほどいるのですから、当然です。

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 学びは神学校でするもの、説き明かしは神学校できちんと教育を受けた方がするもの、といった一種の不文律があるのも知っていました。信徒は教会、教界からしかるべき資格を与えられた牧師、教師、伝道者から教えられることを聞き、その弟子として忠実に学ぶべし――。
 すべてのジャンルできちんと学び、折り目正しい教育を受けるのは、大きな成長を願い、その世界のだいご味を味わう上で当然のことでしょう。

 けれども、信徒の側も、座って与えられることを待っているだけで良いのでしょうか。
 私たちは、聖霊によって救われたのです。聖霊の証印を押され、イエス様に従うものとなったのです。私たちの師は、だれであるよりもまずイエスさまであり、イエス様は日々、私たちに課題を与えて、招いておられるのではないでしょうか。

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 聖書の森ははかり知れない大きさです。とうぜんですね。天地万物を創造された方が御姿を現しておられる場所なのですから。
 私は一生かかっても、聖書の世界を渉猟できないでしょう。私がすでに高齢だからではなく、仮にあと百年生きても、がんばって良い神学校で学んでも、すべてを「わかる」ことなどあり得ないと思われます。
 しかし、それだからこそ、歩き回ってみたいと思うのです。
 自分の足と手を使って、頭と心臓をつかって、ときに息切れして、諦めそうになる旅です。ところが、続いてきたのです。多くの標識があり、手助けして下さる人がいてくださるのが、聖書の森だと気づかされるのです。何より、大きな光がいつも足元と頭上を照らし出しているのです。

 ご教示やご示唆、励ましをいただいていることを感謝申し上げます。
 訪問して下さる方々に感謝申し上げます。
 何より、意思の弱い平凡な信徒の足のともしびとなって下さって日々導いてくださったイエス様に、感謝申し上げます。
 イザヤ書を読む私のために。お祈りください。
                                          さとうまさこ
 



posted by さとうまさこ at 09:34| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月02日

Coffee Break預言書1・イザヤ書2、預言者たち




 キリスト教の聖書の分類では、ヨシュア記から始まって、エステル記までを「歴史の書」と括っています。旧約聖書は、ユダヤ教の教典とも重なっているので、ユダヤ教の場合と、分類の仕方が違うのは当然です。
 そもそも、旧約、新約という呼び方はキリスト教だけのもので、ある意味「けしからん」と叱るように言われる向きもあります。
 浅学な私などこのような論争にとても太刀打ちできませんので、ただ、ユダヤ教の分類を一応承知させていただいて退散するだけです。

 
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 歴史の書は、歴代誌を読み終わった時点で、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記が残っていたのです。この三書を残して、預言書に取りかかろうとしたのは、三書が捕囚以後の時代をモチーフにしているからです。
 書かれた時代を問題にするなら、例えば歴代誌は、捕囚から戻ってきたエズラによって書かれたとの説があるわけですが、私はあくまで書物のモチーフとなっている時代で考えて、歴代誌を一つの区切りとさせていただきました。

 預言と預言者、預言の書と言われる書物については、特定の時代に制約されないと考えられます。人が神のことばを預かること、神が人に語られるのは、生きて働いておられる神の、人に介入される際の不可欠な方法でしょう。いわば、聖書の神を、私たちは「人に語られる神」によって知るのではないでしょうか。

 霊的存在の「見えない」神のみわざは、天地創造に始まって、宇宙のすべてに及んでいるのに違いないのですが、人はその多くを知ることができません。
 そのために、たとえ、神の御前から迷い出てしまった後でも、神は私たちに声をかけ、私たちがもう一度御許に戻れるように、救いの歴史を整えておられる――その大切なポイントで、大きな、あるいは多くの預言者を起こして来られたと思われます。

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 歴史の書の時代は、多くの預言者が立っています。ヨシュアに始まって、士師たち、サムエル、ダビデまでは、預言者であると同時に、政治的、社会的指導者です。
 ところが、古代イスラエルも、南北分裂王朝時代に入ると、社会的地位や権力と無縁の預言者が輩出して来ます。
 大預言者エリヤとエリシャの出現は、聖書の歴史が、いわゆる「歴史劇」とは違う視点で書かれているのに気付かせます。
 世俗の権力や富をもたず、自分が食べる物さえ事欠き、最後の小さなパンを食べて死のうとするやもめから、それを取り上げなければならないエリヤの存在は、あらためて「預言者」の困難というものを語っています。神のことばを受ける者の究極の苦しみです。

 そうしてまた、この時期華々しい働きの出来る大預言者とともに、全く、一時的に、時には殺されるためにだけ用いられたような、たくさんの預言者も登場します。預言者のともがらと言われる集団、偽預言者も存在して、活動しているのを見るのです。

 イザヤが宮廷で活躍したのは、ユダ王朝も末期に入るころ、イスラエル民族の危機的状況の時代です。
 イザヤは貴族だったと言われていますが、預言活動の功績で貴族になった人ではありません。むしろ、ユダの王に直接きびしい預言を伝えるために、神はこのように宮廷に出入りする人物から預言者を起こされたのでしょう。
 


 
posted by さとうまさこ at 09:31| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月03日

Coffee Break預言書1・イザヤ書3、アモツの子イザヤ



 アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。(イザヤ書1章1節)
  天よ、聞け。地も耳を傾けよ。
  主が語られるからだ。
  「子らはわたしが大きくし、育てた。
  しかし、彼らはわたしに逆らった。(2節)
  牛はその飼い主を、
  ろばは持ち主の飼い葉おけを知っている。
  それなのにイスラエルは知らない。
  わたしの民は悟らない。」(3節)


 イザヤはアモツと呼ばれる人の子でした。彼の父であるアモツは注解書によると、ユダヤの王アマツヤの兄弟であった(新実用聖書注解・いのちのことば社)のです。
 アマツヤは、ソロモンの子レハブアムから数えて、ユダ王国九代目の王です。十代目がウジヤですから、イザヤは王ウジヤの従兄弟だったと思われます。王族に連なる地位の高い貴族です。そうして、彼は、ウジヤの時代から、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代にかけて、多くの幻を見、預言をしたと記録されているのです。
 悲しいことに、ヒゼキヤの子マナセの時代まで生き、そこで迫害されて殉教したと言われています。マナセは、偶像礼拝を行なう悪王でしたから、イザヤは王の耳に逆らうことを言わないわけにはいかず、王にとっては目障りな存在だったのでしょうか。

 しかし、王族や貴族のような地位の高い人物、王の側近ともいうべきイザヤに、神が語りかけられたのは、この時代が、ユダに滅びが迫っていて、王や王宮の人間――国の指導者たちこそ、緊急に神に立ち返る必要に迫られていたからでしょう。
 しかも、長い期間にわたって、預言活動をしたイザヤは、その預言の大きさ、重大さも含めてユダの歴史において偉大な神のしもべのひとりでありました。旧約の偉人・五指に数える人もいます。

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 2節3節については、いまさら解説の必要があるでしょうか。
 ここでいう「子ら」とは、とうぜんイスラエル民族です。アブラハムにつながる子孫です。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」がその救いのご計画に用いるために育成されてきたヤコブ(イスラエル)の12人の子どもたちの子孫です。エジプトで大きくされたのち、神によって、導き出され、シナイで契約をいただき、国を立てていただき、神の守りと約束によってカナンに植えられて、王国を築き、繁栄を楽しむまでに祝福を受けた人たちです。
 それは、彼らの力によるのではなく、彼らの功績によるのでもなく、ただ、神からの恩寵でした。神が彼らを愛し、祝福され、その大いなる右の手で彼らを大きくして下さったのです。
 ところが、イスラエル民族は、自分たちの父である神を忘れていると、主は言われるのです。牛やろばでさえ、だれが飼い主であり飼葉をくれる者であるかを忘れないのに、人間である、神の選びの民であるイスラエル(ここではユダ王国)の人々は忘れていると、語られるのです。

 激しく胸を突くような警告から、イザヤ書は始まります。







posted by さとうまさこ at 09:45| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月04日

Coffee Break預言書・イザヤ書4、瀕死の選びの民



  ああ、罪を犯す国、咎重き民、
  悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。
  彼らは主を捨て、
  イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。(イザヤ書1章4節)


 イスラエルの民に対する、この容赦ない修飾語にはため息が出ますね。「咎重き民」に対して、神もまた最大級の非難のことばで咎めておられるとしか見えません。
 それは、当然なのです。「イスラエルは、主との契約を破って主を捨て、聖なる神、主を侮り、背を向けて離れている」というのです。

 シナイ契約を思い出して見るとよくわかるのです。シナイ契約は、神と人との結婚ともたとえられるのですが、私たちが考える、「人間同士の結婚」とはもちろん、本質的に違うのです。
 人間同士の結婚では、たとえ身分違いであっても、玉の輿や逆タマであっても、結婚する二人は対等なのです。奴隷や苦界(娼婦の世界)から救い出した相手であっても、金で買われたような花嫁であっても、主権はほとんど夫にだけあるように見える結婚であっても、人間同士の結婚は対等なのです。

 シナイ契約直近の「出エジプト」を思い出してみるだけで明らかです。強国エジプトのファラオからイスラエルの民を連れ出すための神のみわざは、人間の想定を絶するものです。神でなければ起こしえない、神でなければありえない比類ない力をイスラエル人は目の当たりにし、さらに奇蹟に奇蹟を重ねてもらってシナイに到着し、神から「聖なる神の民」として召され、契約を結んでいただくのです。

 この結婚は、ただ、神の一方的な恩寵でした。イスラエルの民に何か功績があったのではありませんでした。
 人間の結婚では、王と奴隷女の結婚でも、王は何かを得るでしょう。慰めや喜び? それが部屋の花瓶の花程度であっても、けっきょくは蔵に死蔵されるだけの「財産」としてでも、王にもメリットがあるのです。

 けれども、イスラエルの民から神はどのような慰めを得られたでしょうか。なにが、目的でアブラハムを拾い上げられ(召命され)、イサクをお与えになり、ヤコブとその息子たちにまで特別の祝福をお与えになって、飢饉に苦しむカナンから繁栄の大国エジプトに移されたのでしょう。

 神の側に何かのメリットがあったでしょうか。神は、イスラエルの民から慰めや喜びを得ることが目的だったでしょうか。

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 イスラエルが召されたのは、まさに恩寵でした。人類の代表として召されたのですから。
 今でも、クリスチャンの間でも、「召されたい」と願う方々は多いのです。いえ、クリスチャンになったこと自体、召されていると言えます。
 しかし、召されるのは、重大な責任を伴うことです。神の愛に答えて、神の民にふさわしく自分を保たなければなりません。
 今、イエス様の十字架の犠牲を「知っている」私たちでさえ、神の民にふさわしく、神の前に自分を義(ただ)しく保つのは容易ではありません。

 まして、イスラエルは、自分の召しの意味の全貌を理解していたでしょうか。もし、そうなら、イザヤが叫ぶ必要はなかったでしょう。

 
  あなたがたは、なおも
  どこを打たれようというのか。
  反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、
  心臓もすっかり弱り果てている。(5節)
  足の裏から頭まで、
  健全なところはなく、
  傷と、打ち傷と、打たれた生傷。
  絞り出してももらえず、
  包んでももらえず、
  油でやわらげてももらえない。(6節)
  あなたがたの国は荒れ果てている。 
  あなたがたの町々は火で焼かれ、
  畑は、あなたがたの前で、他国人が悔い荒らし、
  他国人の破滅にも似て、荒れ果てている。(7節)
 

 イスラエルは、人としても重篤な病人でした。その国も崩壊し始めていました。





posted by さとうまさこ at 10:28| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月05日

Coffee Break預言書・イザヤ書5、多くのいけにえ




  しかし、シオンの娘は残された。
  あたかもぶどう畑の小屋のように、
  きゅうり畑の番小屋のように、
  包囲された町のように。  (イザヤ書1章8節)
  もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を
  私たちに残されなかったら、
  私たちもソドムのようになり、
  ゴモラと同じようになっていた。(9節)


 ここは4節からの嘆き――イスラエルの惨状の結論です。
 イスラエル民族、イスラエル国家(ユダとイスラエル)は、たしかに死に瀕しているのですが、それでもシオンの娘は残されたと言うのです。シオンはエルサレムのことで、エルサレムは神の都と言われた場所、神殿があり、神がおわします場所でしたから、まだ、エルサレムと神殿が残っているのが、あたかも、瀕死の人間のいのちの灯のように残っていると言うのでしょう。
 それはもちろん、神の恵みによるもので、いわばぶどう畑やきゅうり畑の番小屋のように、それを見張る者――主がおられたから、死滅を避けられているわけです。
 包囲された町とは、敵に囲まれた町ではなく、神がエルサレムを守るために包囲して下さっていたとの意味でしょう。

 もし、そういう守りがなければ、エルサレムはソドムやゴモラのように滅びていたとの神の御言葉です。

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  聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。
  耳を傾けよ。ゴモラの民。
  私たちの神のみおしえに。 (10節)
  「あなたがたの多くのいけにえは、
  わたしに何になろう」と、主は仰せられる。
  「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、
  肥えた家畜の脂肪に飽きた。
  雄牛、子羊、雄山羊の血も喜ばない。(11節)
  あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、
  だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と
  あなたがたに求めたのか。 (12節)


 けれども、主は、その残された人たちに、「ソドムの首領たち、ゴドムの民」と呼びかけておられるのです。これは厳しいですね。警告の意味があるからこのような名前をお使いになったのだとしても、厳しいと言えます。
 イスラエルの民は、見たところ、神礼拝に熱心であったとも取れるのです。
 
  「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」
  「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。」


 民は熱心にいけにえをささげていたのです。いけにえは、容易い(たやすい)ことではありません。雄羊、牡牛、子羊、雄山羊など、大型動物は、人が食べれば一頭で何十人分もの食料になりました。肥えた家畜の脂肪は、今でいえばマグロの大トロにも匹敵する民の羨望だったかもしれません。牧畜民だからと、毎日大型動物を屠殺して食べていたら、たちまち財産を食いつぶすことになったでしょう。家畜は、そのミルクがまず大きな食料でした。

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 当時は、神の御前に出て礼拝でできるのは大祭司だけでした。その大祭司も手ぶらでは、聖所に入って行くことはできませんでした。祭司は、動物の血を持って神の前に出たのです。ささげる動物は自分の罪の身代わりに死ぬものでしたから、定められた動物、それも最上のものをささげたわけです。(レビ記)
 ささげる側は大変な犠牲を払うわけです。少なくとも、犠牲を払ったと思えるほどのものだったのです。

 今日の私たちもそうですが、大きな犠牲を払ったとき、自分をほめたい気になります。神さまもほめて下さるだろうと思うのです。
 教会でいえば、奉仕や献金です。くたくたになるまでの奉仕。ちょっと痛いかなと思える額の献金は、信仰なしにはできません。しかし、信仰がこのような表面の行為によって、ゆがめられることもあるのです。つい、自分をほめたくなるのが人間だからです。自分をほめることは、自分を誇り、自分の信心深さを自認することにつながります。

 イザヤが預言した時代のユダ王国。ここでも毎日多くの犠牲がささげられていたのでしょう。そうして、ささげている人々の多くは、自分の信仰に満足していたのです。
 自分はゴモラであり、ソドムだなんて思いもよらないことだったでしょう。
 しかし、神、主は仰せなのです。 

  あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、
  だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と
  あなたがたに求めたのか。 (12節)
 





posted by さとうまさこ at 09:12| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする