2014年01月02日

Coffee Break預言書1・イザヤ書2、預言者たち




 キリスト教の聖書の分類では、ヨシュア記から始まって、エステル記までを「歴史の書」と括っています。旧約聖書は、ユダヤ教の教典とも重なっているので、ユダヤ教の場合と、分類の仕方が違うのは当然です。
 そもそも、旧約、新約という呼び方はキリスト教だけのもので、ある意味「けしからん」と叱るように言われる向きもあります。
 浅学な私などこのような論争にとても太刀打ちできませんので、ただ、ユダヤ教の分類を一応承知させていただいて退散するだけです。

 
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 歴史の書は、歴代誌を読み終わった時点で、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記が残っていたのです。この三書を残して、預言書に取りかかろうとしたのは、三書が捕囚以後の時代をモチーフにしているからです。
 書かれた時代を問題にするなら、例えば歴代誌は、捕囚から戻ってきたエズラによって書かれたとの説があるわけですが、私はあくまで書物のモチーフとなっている時代で考えて、歴代誌を一つの区切りとさせていただきました。

 預言と預言者、預言の書と言われる書物については、特定の時代に制約されないと考えられます。人が神のことばを預かること、神が人に語られるのは、生きて働いておられる神の、人に介入される際の不可欠な方法でしょう。いわば、聖書の神を、私たちは「人に語られる神」によって知るのではないでしょうか。

 霊的存在の「見えない」神のみわざは、天地創造に始まって、宇宙のすべてに及んでいるのに違いないのですが、人はその多くを知ることができません。
 そのために、たとえ、神の御前から迷い出てしまった後でも、神は私たちに声をかけ、私たちがもう一度御許に戻れるように、救いの歴史を整えておられる――その大切なポイントで、大きな、あるいは多くの預言者を起こして来られたと思われます。

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 歴史の書の時代は、多くの預言者が立っています。ヨシュアに始まって、士師たち、サムエル、ダビデまでは、預言者であると同時に、政治的、社会的指導者です。
 ところが、古代イスラエルも、南北分裂王朝時代に入ると、社会的地位や権力と無縁の預言者が輩出して来ます。
 大預言者エリヤとエリシャの出現は、聖書の歴史が、いわゆる「歴史劇」とは違う視点で書かれているのに気付かせます。
 世俗の権力や富をもたず、自分が食べる物さえ事欠き、最後の小さなパンを食べて死のうとするやもめから、それを取り上げなければならないエリヤの存在は、あらためて「預言者」の困難というものを語っています。神のことばを受ける者の究極の苦しみです。

 そうしてまた、この時期華々しい働きの出来る大預言者とともに、全く、一時的に、時には殺されるためにだけ用いられたような、たくさんの預言者も登場します。預言者のともがらと言われる集団、偽預言者も存在して、活動しているのを見るのです。

 イザヤが宮廷で活躍したのは、ユダ王朝も末期に入るころ、イスラエル民族の危機的状況の時代です。
 イザヤは貴族だったと言われていますが、預言活動の功績で貴族になった人ではありません。むしろ、ユダの王に直接きびしい預言を伝えるために、神はこのように宮廷に出入りする人物から預言者を起こされたのでしょう。
 


 
posted by さとうまさこ at 09:31| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする