2014年01月04日

Coffee Break預言書・イザヤ書4、瀕死の選びの民



  ああ、罪を犯す国、咎重き民、
  悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。
  彼らは主を捨て、
  イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。(イザヤ書1章4節)


 イスラエルの民に対する、この容赦ない修飾語にはため息が出ますね。「咎重き民」に対して、神もまた最大級の非難のことばで咎めておられるとしか見えません。
 それは、当然なのです。「イスラエルは、主との契約を破って主を捨て、聖なる神、主を侮り、背を向けて離れている」というのです。

 シナイ契約を思い出して見るとよくわかるのです。シナイ契約は、神と人との結婚ともたとえられるのですが、私たちが考える、「人間同士の結婚」とはもちろん、本質的に違うのです。
 人間同士の結婚では、たとえ身分違いであっても、玉の輿や逆タマであっても、結婚する二人は対等なのです。奴隷や苦界(娼婦の世界)から救い出した相手であっても、金で買われたような花嫁であっても、主権はほとんど夫にだけあるように見える結婚であっても、人間同士の結婚は対等なのです。

 シナイ契約直近の「出エジプト」を思い出してみるだけで明らかです。強国エジプトのファラオからイスラエルの民を連れ出すための神のみわざは、人間の想定を絶するものです。神でなければ起こしえない、神でなければありえない比類ない力をイスラエル人は目の当たりにし、さらに奇蹟に奇蹟を重ねてもらってシナイに到着し、神から「聖なる神の民」として召され、契約を結んでいただくのです。

 この結婚は、ただ、神の一方的な恩寵でした。イスラエルの民に何か功績があったのではありませんでした。
 人間の結婚では、王と奴隷女の結婚でも、王は何かを得るでしょう。慰めや喜び? それが部屋の花瓶の花程度であっても、けっきょくは蔵に死蔵されるだけの「財産」としてでも、王にもメリットがあるのです。

 けれども、イスラエルの民から神はどのような慰めを得られたでしょうか。なにが、目的でアブラハムを拾い上げられ(召命され)、イサクをお与えになり、ヤコブとその息子たちにまで特別の祝福をお与えになって、飢饉に苦しむカナンから繁栄の大国エジプトに移されたのでしょう。

 神の側に何かのメリットがあったでしょうか。神は、イスラエルの民から慰めや喜びを得ることが目的だったでしょうか。

★★★★★

 イスラエルが召されたのは、まさに恩寵でした。人類の代表として召されたのですから。
 今でも、クリスチャンの間でも、「召されたい」と願う方々は多いのです。いえ、クリスチャンになったこと自体、召されていると言えます。
 しかし、召されるのは、重大な責任を伴うことです。神の愛に答えて、神の民にふさわしく自分を保たなければなりません。
 今、イエス様の十字架の犠牲を「知っている」私たちでさえ、神の民にふさわしく、神の前に自分を義(ただ)しく保つのは容易ではありません。

 まして、イスラエルは、自分の召しの意味の全貌を理解していたでしょうか。もし、そうなら、イザヤが叫ぶ必要はなかったでしょう。

 
  あなたがたは、なおも
  どこを打たれようというのか。
  反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、
  心臓もすっかり弱り果てている。(5節)
  足の裏から頭まで、
  健全なところはなく、
  傷と、打ち傷と、打たれた生傷。
  絞り出してももらえず、
  包んでももらえず、
  油でやわらげてももらえない。(6節)
  あなたがたの国は荒れ果てている。 
  あなたがたの町々は火で焼かれ、
  畑は、あなたがたの前で、他国人が悔い荒らし、
  他国人の破滅にも似て、荒れ果てている。(7節)
 

 イスラエルは、人としても重篤な病人でした。その国も崩壊し始めていました。





posted by さとうまさこ at 10:28| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする