2014年01月05日

Coffee Break預言書・イザヤ書5、多くのいけにえ




  しかし、シオンの娘は残された。
  あたかもぶどう畑の小屋のように、
  きゅうり畑の番小屋のように、
  包囲された町のように。  (イザヤ書1章8節)
  もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を
  私たちに残されなかったら、
  私たちもソドムのようになり、
  ゴモラと同じようになっていた。(9節)


 ここは4節からの嘆き――イスラエルの惨状の結論です。
 イスラエル民族、イスラエル国家(ユダとイスラエル)は、たしかに死に瀕しているのですが、それでもシオンの娘は残されたと言うのです。シオンはエルサレムのことで、エルサレムは神の都と言われた場所、神殿があり、神がおわします場所でしたから、まだ、エルサレムと神殿が残っているのが、あたかも、瀕死の人間のいのちの灯のように残っていると言うのでしょう。
 それはもちろん、神の恵みによるもので、いわばぶどう畑やきゅうり畑の番小屋のように、それを見張る者――主がおられたから、死滅を避けられているわけです。
 包囲された町とは、敵に囲まれた町ではなく、神がエルサレムを守るために包囲して下さっていたとの意味でしょう。

 もし、そういう守りがなければ、エルサレムはソドムやゴモラのように滅びていたとの神の御言葉です。

★★★★★

  聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。
  耳を傾けよ。ゴモラの民。
  私たちの神のみおしえに。 (10節)
  「あなたがたの多くのいけにえは、
  わたしに何になろう」と、主は仰せられる。
  「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、
  肥えた家畜の脂肪に飽きた。
  雄牛、子羊、雄山羊の血も喜ばない。(11節)
  あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、
  だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と
  あなたがたに求めたのか。 (12節)


 けれども、主は、その残された人たちに、「ソドムの首領たち、ゴドムの民」と呼びかけておられるのです。これは厳しいですね。警告の意味があるからこのような名前をお使いになったのだとしても、厳しいと言えます。
 イスラエルの民は、見たところ、神礼拝に熱心であったとも取れるのです。
 
  「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」
  「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。」


 民は熱心にいけにえをささげていたのです。いけにえは、容易い(たやすい)ことではありません。雄羊、牡牛、子羊、雄山羊など、大型動物は、人が食べれば一頭で何十人分もの食料になりました。肥えた家畜の脂肪は、今でいえばマグロの大トロにも匹敵する民の羨望だったかもしれません。牧畜民だからと、毎日大型動物を屠殺して食べていたら、たちまち財産を食いつぶすことになったでしょう。家畜は、そのミルクがまず大きな食料でした。

★★★★★
 
 当時は、神の御前に出て礼拝でできるのは大祭司だけでした。その大祭司も手ぶらでは、聖所に入って行くことはできませんでした。祭司は、動物の血を持って神の前に出たのです。ささげる動物は自分の罪の身代わりに死ぬものでしたから、定められた動物、それも最上のものをささげたわけです。(レビ記)
 ささげる側は大変な犠牲を払うわけです。少なくとも、犠牲を払ったと思えるほどのものだったのです。

 今日の私たちもそうですが、大きな犠牲を払ったとき、自分をほめたい気になります。神さまもほめて下さるだろうと思うのです。
 教会でいえば、奉仕や献金です。くたくたになるまでの奉仕。ちょっと痛いかなと思える額の献金は、信仰なしにはできません。しかし、信仰がこのような表面の行為によって、ゆがめられることもあるのです。つい、自分をほめたくなるのが人間だからです。自分をほめることは、自分を誇り、自分の信心深さを自認することにつながります。

 イザヤが預言した時代のユダ王国。ここでも毎日多くの犠牲がささげられていたのでしょう。そうして、ささげている人々の多くは、自分の信仰に満足していたのです。
 自分はゴモラであり、ソドムだなんて思いもよらないことだったでしょう。
 しかし、神、主は仰せなのです。 

  あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、
  だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と
  あなたがたに求めたのか。 (12節)
 





posted by さとうまさこ at 09:12| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする