2014年01月06日

Coffee Break預言書・イザヤ書6、「さあ、来たれ。論じ合おう」



  もうむなしいささげ物をささげて来るな。
  香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。
  新月のまつりと安息日――会合の召集、
  不義と、きよめの集会、
  これにわたしは耐えられない。 (イザヤ書1章13節)
  あなたがたの新月の祭りや例祭を、
  わたしの心は憎む。
  それはわたしの重荷となり、
  わたしは負うのに疲れ果てた。 (14節)
  あなたがたが手を差し伸べて祈っても、
  わたしはあなたがたから目をそらす。
  どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。
  あなたがたの手は血まみれだ。 (15節)


 11節12節〜14節――主は、ささげ物を拒絶されているのです。これは、驚くべきことです。イスラエルの神礼拝では、ささげ物は、たんなるへりくだりの表現、うやうやしさの儀式ではありません。ささげ物は、祈る民、礼拝する民が神に近づくための必要欠くべからざる前提でした。人間は、自分の罪を赦していただかない限り、神の御前に出ることはできないのです。自分の罪を贖うのは自分のいのちなのです。けれども、そうはできないので、動物にそのいのちを代ってもらっているのです。身代わりのいのちを差しだして、神の御前に出ていくのです。
 けれども、身代わりは、同時に偽りになり得ます。自分ではない者のいのちは、しょせん自分ではないのです。人は、自分のいのちの代わりなら財産――金銀財宝、家族や妻子でも差し出すかもしれません。富める者にとって、とくにそれは容易です。そこに偽りが入り込んできます。自分のいのちを差しだす覚悟、そのへりくだりの代わりに、神でさえ自由になるといった傲慢も入り込んでくるかもしれません。

 一頭をささげるのがやっとの人間に対し、十頭ささげることができる人間は、それだけ、神が近づいてくださるのでしょうか。
 しかし、人は、自分の都合の良いように思いやすいものです。人間の側の論理がいつの間にか、神と人との関係を支配します。
 人間が勝手に解釈し、せっかく礼拝し、せっかくささげ物をし、せっかくりっぱな神殿を戴いているのに、神礼拝と律法が見失われ、国は乱れ、「神の民」イスラエルは堕落して行くのです。

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 権力のある者、財産のある者が、山のようなささげ物をささげて、その実、じっさいの世界では、悪事が放置されていたのでしょう。いや、増えていく一方だったのでしょう。
 神ご自身が、「あなたがたの手は血まみれだ」と仰せなのです。何と激しいことばでしょうか。

  洗え。身をきよめよ。
  私の前であなたがたの悪を取り除け。
  悪事を働くのをやめよ。(16節)
  善をなすことを習い、
  公正を求め、しいたげる者を正し、
  みなしごのために正しいさばきをなし、
  やもめのために弁護せよ。(17節)


 このように神から命じられなければならないほど、イスラエルは乱れていたのでしょうか。
 いいえ。たぶん、弱肉強食、権勢と富の奪い合いの事態は、当時、世界のどこの国でも同じだったかもしれません。アッシリヤの非情な侵略ぶり、容赦ない血の施政。バビロンがアッシリヤから政権を奪って行くプロセスにも、もとより「神の正義」はあったとは思えません。けれども、これらの国々と同じであること自体、神の民のあるべき姿ではなかったでしょう。

 不公正が横行していたのです。
 それは、なによりも、しいたげということばで指摘されているのです。
 みなしごややもめは、イスラエルの神が弱者を指してとくに選ばれたことばです。すでに、出エジプト記のシナイ契約で神、主は、わざわざ戒めておられるのです。(出エジプト記22章22節)
 ここには、弱者として、在留異国人(21節)、貧しいもの(25節)も挙げられています。神は、激しくイスラエルの民を非難しています。けれども、言語道断と処罰をされようとしているのではありません。

 つぎの18節以下は、素晴らしい聖句です。

  「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。
  「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、
  雪のように白くなる。
  たとい、紅のように赤くても、
  羊の毛のようになる。(18節)


 主は招いてくださっているのです。弁論の機会を与えてくださっているのです。





posted by さとうまさこ at 10:26| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする