2014年01月07日

Coffee Break預言書・イザヤ書7、「さあ、来たれ。論じ合おう」2


 
 1章から、いきなりユダとエルサレムへの激しい非難で始まるイザヤ書です。その語気にたじたじしてしまいます。最大級の叱責のことばが連ねられているからです。
 
 今は、子どもや部下を震え上がらせるような親や上司がいるのかわかりませんが、子どもにとって、「切り離されたらおしまい」の相手は、だれよりも親でしょう。幼い子供がどれほど一生懸命親の目を見、その手を握っているかは、日常どこででも見ることができます。子どもにとって、親から見放されることは一大事です。そういう大切な相手だからこそ、叱責は胸に堪(こた)えるのです。

 これは、聖書のテーマでもあると思うのですが、真に子どものことを思う親は、叱責という「懐剣」を使ってでも、愛する者をあるべき道に戻さなければならない時があるのではないでしょうか。
 愛ある者の叱責は、罵倒ではありませんし、まして、いじめ、たんなるサディズムの表出などではありません。
 もし、叱責する者に何の愛もなく、叱責した相手に対して「救い」を用意していないなら、叱責された者は、相手を恨むだけ。両者の間には憎しみしか残らないでしょう。

 人間の親でさえ愛があるのだからといえば、ひんしゅくを買うかもしれません。でも、私には「親に捨てられた」友人もいますし、親が捨てた子どもを育てておられるキリスト者の方も知っています。人間の行動は、しばしば例外がありえますが、神は、私たち人を見捨てられることは、絶対にない。それが、聖書を一貫して流れる神の救いの物語ではないでしょうか。

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 叱責のことばのあとに、「さあ、ここにきて座りなさい」と言われたら、震え上がるのではないでしょうか。さあ、どんな罰が下るのかしらと思うと、縮み上がってしまいます。奈良時代の律令の刑罰では、「笞、杖、徒、流、死」(ち、じょう、ず、る、し)と呼ばれる刑罰がありました。イスラエルであっても、法廷に引きだされた者はどのような罰を宣告されるのかと脅えたでしょう。

 ところが、主は「論じ合おう」と言って下さるのです。
 
  「もし、喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、
  この国の良いものを食べることができる。(イザヤ書1章19節)
  しかし、もし、拒み、そむくなら、
  あなたがたは剣にのまれる」と、
  主の御口が語られたからである。(20節)


 悔い改めて神に立ち帰るなら、無罪放免、罪は真っ白になり、それどころか、大きな祝福の中を生きることができる。
 「しかし・・」以降のように、反対の意味のことばを連ねるのは、一種の表現上の技法でしょう。聖書には、このような対句はしばしば現れていて、枚挙にいとまがありません。

 この対照は、すぐ次にも出て来ます。

  どうして、遊女になったのか。中信の都が。
  公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。
  今は人殺しばかりだ。(21節)
  おまえの銀はかなかすになった。
  おまえの良い酒も水で割ってある。(22節)
  おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。
  みなわいろを愛し、報酬を追い求める。
  みなしごのために正しいさばきをせず、
  やもめの訴えも彼らは取り上げない。(23節)

  それゆえ、――万軍の主、
  イスラエルの全能者、主の御つげ――
  「ああ、
  わたしの仇に思いを晴らし、
  わたしの敵に復讐しよう。
  しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、
  おまえのかなかすを灰汁のようにとかし、
  その浮きかすを皆覗こう。(25節)
  こうして、
  おまえのさばきつかさたちを初めのように、
  おまえの議官たちを昔のようにしよう。
  そうして後、
  おまえは正義の町、忠信の都と呼ばれよう。(26節)







posted by さとうまさこ at 09:57| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする