2014年01月09日

Coffee Break預言書・イザヤ書9、――彼らをお赦しにならないように。――



 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。(イザヤ書2章1節)

 ここでまた、1章の始まりのように、前置きがあります。1章の前置きが、「これは彼が、ユダのエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見た者である」とあるように、イザヤ書全体の前置きと見ることができる(新実用聖書注解・いのちのことば社)。他方、2章における見出しは、預言のメッセージ、特に2−5章の内容に付けられたものと考えられる(同注解書)とのことです。

  終わりの日に、
  主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、
  丘々よりもそびえ立ち、
  すべての国々がそこに流れてくる。(2節)
  

 終わりの日と言えば、聖書読者は「終末」だと知っています。そうして、新約聖書の完結までを読んでいる私たちは、それは、イエス・キリストの再臨の時です。
 イザヤの預言が含む、この時代の人々の「終わりの日」は、エルサレムの滅亡を意味していました。それにもかかわらず、イザヤが、その日にエルサレムが堅く立ち、すべての人々がそこに流れてくると預言しているのは、瞠目に値します。
 ここでも、イザヤがメシヤ預言をしていると言えないでしょうか。

  多くの民が来て言う。
  「さあ、主の山、ヤコブの家に上ろう。
  主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。
  私たちはその小道を歩もう。」
  それは、シオンからみおしえが出、
  エルサレムから主のことばが出るからだ。(3節)
  主は国々の間をさばき、
  多くの国々の民に、判決を下す。
  彼らはその剣を鋤に、
  その槍をかまに打ち直し、
  国は国に向かって剣を上げず、
  二度と戦いのことを習わない。(4節)


 終わりの日にエルサレムに集まって来た人々は、主に見え(まみえ)、主のみ教えを聞き、主が判決を下された都で、平和を取り戻すのです。
 剣を鋤に、槍をかまに打ち直すとは、軍備を捨てることを意味しています。軍備がなくても、畑を耕し、草を刈ることができる平和な生活こそ人々が望んでいることです。
 戦う必要なければ戦いに備える必要もありません。
 もちろん、これは、人間にとっては夢です。人々の願いとは逆に、人間の歴史は戦争の歴史である。文明の進歩は、武器の進歩であると言われるほどです。
 私たち人間は、すばらしい理想をもち、多くを研究し、計画し、話し合打ことができます。そうできたとしても、完全な平和を実現することはできません。
 けれども、神なら実現して下さることができるのです。

 ★★★★★

  来たれ。ヤコブの家よ。
  私たちも主の光に歩もう。(5節)
 

 ヤコブの家は、イスラエル全家を指し示しています。ヤコブが神からイスラエルという名前をいただき、ヤコブの十二人の息子たちが神の救いの民イスラエルとして選ばれたからです。
 エルサレムは神の神殿が置かれた神の都、最後の日に主の教えを聞くことができるところと、分かっているのに、イザヤは改めて、ヤコブの家の者たちに「来たれ」と、号令をかけなければならなかったのでしょうか。
 以下の箇所は恐ろしい現実です。
 すでに、ヤコブの家は、(神から)捨てられたというのです。

  まことに、あなたは、
  あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。
  彼らがペリシテ人のように
  東方からの者、卜者で満ち、
  外国人の子らであふれているからだ。(6節)
  その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、
  その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。(7節)
  その国は偽りの神々で満ち、
  彼らは自分の手で造ったもの、
  指で造った物を拝んでいる。(8節)
  こうして人はかがめられ、人間は低くされた。
   ――彼らをお赦しにならないように。――  (9節)


 これらの現実は、列王記や歴代誌に幾度も記されています。
 物は有り余り、軍備は増強されて、一見、国は隆盛なのです。けれども、神の御命令は守られていません。卜占があふれ、外国人との間の結婚で、イスラエルの神を拝まない子どもがあふれ、多くの神々が祀られ、偶像がはびこっている、これは、何を意味するでしょう。
 イザヤは、怒りを込めて(あるいは、悲しみをこめて)つぶやきます。

  ――彼らをお赦しにならないように。――





posted by さとうまさこ at 09:45| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする