2014年01月12日

Coffee Break預言書・イザヤ書12、義人は幸いだと言え。(イザヤ書3章10節〜15節)



  義人は幸いだと言え。
  彼らは、その行ないの実を食べる。(イザヤ書3章10節)
  悪者にはわざわいあれ。
  わざわいが彼にふりかかり、
  その手の報いがふりかかる。(11節)


 ここは、勧善懲悪、因果応報のさとしになっています。なぜなら、義人がいないからでしょう。


  わが民よ。幼子が彼をしいたげ、
  女たちが彼を治める。
  わが民よ。あなたの指導者は迷わす者、
  あなたの歩む道をかき乱す。(12節)


 これはユダとエルサレムの統治の実態です。幼子のような分別しかない者が、義人をしいたげるのです。女というのは、いまでは社会的活動ができるのが当たり前ですが、当時は、家族の中で妻や母親であり、社会的な力は表向きはありませんでした。
 日本でも、わずか数十年前までは、「女子供」といったことばが、侮蔑的な意味を込めて使われたのです。「女子供の家」(母子家庭)と呼ばれれば、それだけで軽んじられている雰囲気です。「女子供の政治」といえば、政治的に幼稚な手法しか使えないことでした。
 男社会であった古代イスラエルでも、社会的視野の狭い、社会的配慮のない王やさばきつかさを、女子供と形容していたのかもしれません。

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  主は論争するために立ち上がり
  民をさばくために立つ。(13節)
  主は民の長老たちや、民のつかさたちと、
  さばきの座にはいる。


 1章18節で、「さあ、来たれ、論じ合おう」と仰せられた主です。イザヤを預言者としてお立てになったこと自体が、民に対する告発だったでしょう。主が「民」といわれる時は、イスラエルの民全部を含んでいました。いつもは、支配され裁かれる下層民だけでなく、民の長老や、民のつかさたちもいっしょに、主の法廷にひきだされているのです。「民のつかさ」は、当然、王もふくむのです。支配者のかしらこそ、責任は大きいはずです。

  「あなたがたは、ぶどう畑を荒れすたらせ、
  貧しい者からかすめた物を、(14節)
  あなたがたの家に置いている。
  なぜ、あなたがたは、わが民を砕き、
  貧しい者の顔をすりつぶすのか。
  ――万軍の神、主の御告げ――」


 聖書の神(ヤーウエ)が、シナイでイスラエルの民にお与えになった戒めは、極めて明快なものでした。神から与えられた基準に従うことです。それは、民を治め、じっさいのイスラエルの社会に、「神の基準」が行われていることでした。やもめや貧しいものや孤児に配慮する社会でした。
 「殺すな、盗むな、姦淫するな、偽りの証言をするな、人の物を欲しがるな」
 これらが、十戒(出エジプト記20章)の中で戒められているのは、犠牲になるのが「弱い者」だったからでしょう。

 当時の世界的な政治的基準では、弱肉強食は当たり前だったかもしれませんが、少なくとも、神の国・神聖政治国家イスラエルでは、弱い者が犠牲になってはいけないと命じられているのです。ところが、イザヤのこの預言の時代、神は、「なぜ、あなたがたは、わが民を砕き、貧しい者の顔をすりつぶすのか。」と、仰せなのです。







posted by さとうまさこ at 07:39| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする