2014年01月15日

Coffee Break預言書・イザヤ書15、「そのぶどう畑いついてのわが愛の歌」(イザヤ書5章1節〜6節)



  「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。(イザヤ書5章1節)

 主は、「わが愛する者のために歌おう」と切り出されるのです。まるで、恋人の歌ですね。前の章で、イスラエルが女にたとえられていたこと、もともとシナイ契約がヤーウエとイスラエルの民との結婚契約ともたとえられることを思えば、この箇所は美しい呼びかけだと取ることができます。もちろん、神の愛は、人間の男の(どんなに度量の大きなりっぱな男の、愛であっても)愛や包容力とは比べ物になりません。

  彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。(2節)

 主は、すでに美しく、完全に見える女を愛する人間の男とは違います。神様は、何の力もない赤ん坊であったイスラエルを育てるところから始められたのです。それは、聖書を初めから読めばわかることです。地のちりから形づくられたアダムに、「いのちの息を吹き込む」――いのちを与えてくださることから「生きる者となった」のが人間です。

 アブラハムを召され、イスラエルの民をエジプトに移され、その後数のふえたイスラエルの民をエジプトからふたたび連れ出されたのです。契約を結び、カナンに入れ、王国を立てさせてくださったのです。
 その一つ一つの過程で、イスラエルの民は、自分のちからで、「すくすくと」育ったわけではなかったのです。
 あたかも、ぶどう畑を育てるように、主は、愛情と手間をかけ、注意深く熱心にイスラエルを形づくってくださったのです。

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  そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。(3節)

 主は、ここで、告発する立場から、一転、「告発せよ」と仰せなのです。まさに、「さあ、来たれ。論じ合おう」(1章18節)です。

  わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。(5章4節)

 私たちも親や先生から叱られたとき、一方的に咎められている間は、内心、悪いと思っていてさえ、反論や言い訳を考えていたりします。けれども、一転、「そちらの言い分を言ってみよ」と問い返されると困ってしまうのです。結局は、真実の愛があり、自分の後ろ盾である親や先生には、「勝てない」のがわかるのです。

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  さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。(5節)
  わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」(6節)


 私自身は、農業の経験はおろか、小さな植木一つを育てるのでさえ、満足にできないのです。けれども、植物を育てるのがどんなに大変であるかはわかります。米という字は、育てるのに「八十八回」の手間をかけるものであるのを意味しているそうです。
 ぶどうも同様なのでしょう。剪定して垣根をはみ出さないようにし、いばらやおどろがはびこらないように、取り除き、その上に、必要な雨が降ってこそ、甘いぶどうが実るのです。
 しかし、イスラエルの民みずからが、おどろとなりいばらとなり、わがまま放題に悪を行なうなら、主は、「剪定もしない。雨も降らせない」と言われるのです。
 その結果は、恐ろしい現実です。





posted by さとうまさこ at 08:29| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする