2014年01月18日

Coffee Break預言書・イザヤ書18、救おうとしても、救い出す者がいない(イザヤ書5章26節〜30節)



 イザヤの預言は、神の怒りの警告から始まっています。
 南北に分裂したイスラエル王国は、金の小牛を拝んでいた北イスラエルは、すでに滅亡してしまい(BC722年)ました。しかし、南王国・ユダは、まだ繁栄を楽しんでいました。南王国には、神殿のあるエルサレムがあり、形の上では、正統な神聖政治国家イスラエルを継続していました。けれども、内実は、偶像礼拝と律法の乱れがはびこって、人々は、アブラハム、イサク、ヤコブの神を忘れた生活をしていました。
 神は、そのような南王国に対し、イザヤを用いて警告をお与えになっています。

  主が遠く離れた国に旗を揚げ、
  地の果てから来るように合図されると、
  見よ、それは急いで、すみやかに来る。(イザヤ書5章26節)


 さまざまな退廃と堕落を指摘された後、神は具体的な「罰」をお示しになります。それは恐ろしい出来事の到来です。
 遠くの国が、ユダを襲撃しに来るのです。それも、主が「来るように合図をされると」なのです。
 その侵略者たちは、強いのです。

 
  その中には、疲れる者もなく、つまずく者もない。
  それはまどろまず、眠らず、
  その腰の帯は解けず、
  くつひもも切れない。(27節)
  その矢はとぎすまされ、
  弓はみな張ってあり、
  馬のひづめは火打石のように、
  その車輪はつむじ風のように思われる。(28節)
  それは、獅子のようにほえる。
  若獅子のようにほえ、うなり、
  獲物を捕える。
  救おうとしても救い出す者がいない。(29節)


 今の時代に置き換えると、「よく訓練された屈強の兵士」「完全な装備」「強力な兵器」を備えた軍隊です。
 その強力な軍隊がとどろきを上げて近づき、剣を振り上げて襲いかかって来る様子が見えるようです。まるで、獲物に跳びかかる若獅子のようだというのです。

★★★★★

 思いがけない大きな災難や困難に遭って、初めて人は泣き叫びます。救いを求めます。
 神を信じていないと豪語する人でも、「神さま!」と叫ぶ時が来るのです。
 まして、イスラエルの民は、「神の選びの民」でした。じっさいにヤーウエと呼ばれる神への知識もあり、誇りも持っていました。いざとなれば、神の守りがあると、信じていたに違いありません。エジプト軍に追われたイスラエルの難民が、葦の海を目の前にして、絶体絶命になったとき、アブラハム、イサク、ヤコブの神が海を開いてイスラエルの民を逃がして下さったように、いざとなる神の救いを見ることができると期待をもっていたかもしれません。

 けれども、ふたたび葦の海が開かれることはないのでしょう。
 イザヤの時代に民が見る海(敵)は、「とどろいて」「イスラエルに向かって、唸り声を上げる」のです。

 かつて、出エジプトのときには、民の先導をし、また、敵に対する目くらましとなってくれた黒雲は、文字通り闇となって、追い迫り、わずかな光さえその中に吸収されてしまうのです。

  
  その日、その民は海のとどろきのように、
  イスラエルにうなり声をあげる。
  地を見やると、
  見よ、やみと苦しみ。
  光さえ雨雲の中で暗くなる。(30節)


 5章は、この救いのないメッセージで閉じられます。これまで細々ながら、対(つい)になって表れていた回復のイメージは語られないままです。

 







posted by さとうまさこ at 09:50| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする