2014年01月20日

Coffee Break預言書・イザヤ書20、彼は、私の口に触れて言った。(イザヤ書6章5節〜7節)



  そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ書6章5節)


 イスラエルの民が、「神を見た者は死ぬ」と言うのは、聖書の神のご性質に由来します。神は、創造神で、全知全能で、宇宙万物すべてを統べおさめ、すべての主権をお持ちの方です。同時に、そのご人格(神格?)は、聖であられるのです。(レビ記11章45節、ヨシュア記24章19節 他)
 人は、エデンの園で聖なる神により造られ、造り主・神と共に暮らしていたのに、神のご命令に背いて罪を犯してしまったのです。このとき、神のこの「聖のご性質」が働いて、人を御前から追放されたのです。神の聖さの光の前に焼き尽くされないためで、これは神の愛の表れでもありました。
 以来、神と人との交わりは、人の側からは不可能になったとも言えます。神は、人を追放された後、「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」 つまり戻って来られないように、厳重な警戒を敷かれたのです。(創世記3章24節)

 それでも、神は、必要に応じて、人に声を聞かせておられましたし、御使いを遣わして人の歩みを正させようともされました。じっさいには、洪水を起こして地上のすべての物を滅ぼしてしまおうとしたとき、義しい人ノアとその家族だけを生かして、地上にその血族を生かそうとしてくださいました。しかし、ノアとその子孫から生まれた人間たちもまた罪に汚れており、地上には悪がはびこっていくのです。神の、救いのご計画が、大変用意周到なものになって行くのは、神の最初からのご計画であったのでしょうが、それが、イスラエル民族の選びとその末に御子を遣わされるという遠大なシナリオの実行でした。

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 シナイ契約直後に制作を命じられた幕屋の中に祭壇が置かれたのは、犠牲を焼くためでした。犠牲とは、私たちの罪の身代わりに殺される動物のいのちのことです。大祭司が神とイスラエル人との間を取り次ぐためには、犠牲の血を持って至聖所に入らなければなりませんでした。それも、定められた装束をまとい、定められた手続きを経て、定められた人が、定められた期間と時刻、大変な緊張と恐れの中で神を礼拝したのです。そのようにして、人がへりくだり恐れをもって近づくとき、神は幕屋の至聖所という限られた場所に顕われてくださったのです。

 神の聖さは純粋で厳しいものでした。神を見た者は死ぬとすべてのイスラエル人は、そのことを「知っていた」のです。

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  すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。(6節)
   彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。(7節)


 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。(イザヤ書6章1節)のですから、イザヤが死ぬと思ったのは当然でした。
 その彼のもとにセラフィムが飛んできて、祭壇から採ってきた燃えさかる炭を、彼の口に触れさせ、宣言したのです。「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」。

 口を炭で焼くイメージは、犠牲が焼かれるイメージなのでしょうか。くちびるが犠牲となって罪が赦されたのでしょうか。

 ここは大変考えさせられる箇所ですね。
 私たちは、私たちの心や頭、欲望の渦巻く肉体のすべてで罪を犯していると思うのですが、口は、それを「代表する」ほど、罪が現れているところなのでしょうか。

 たしかに、イエスさまも、口から出る物が人を汚すと仰せになっています。(マタイの福音書15章18節19節)
 預言者として召されるために、イザヤはまず、彼の口をきよめられる必要があったのでしょう。








posted by さとうまさこ at 10:22| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする