2014年01月21日

Coffee Break預言書・イザヤ書21、ここに、私がおります。(イザヤ書6章8節〜11節)



 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6章8節)

 イザヤの口を聖められた後、主(しゅ)は、「だれが、われわれのために行くだろう」と仰せなのです。「だれが」とお尋ねですが、そこにはイザヤしかいないはずです。主から聖くしていただいたイザヤの答えも決まっています。ためらうことなく、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言えるのです。

 ここで、主がご自身のことを指して、「われわれ」を使っていることについて、一言。
 創世記1章26節、3章22節の箇所にも、神はご自分を指して、「われわれ」と仰せになっています。

  「だれが、われわれのために行くだろう」
  「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1章26節)
  「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。――」(同3章22節)


 聖書を批判する人たちは、このような箇所で、「なんで、唯一の神が複数なのだ。矛盾ではないか」と、鬼の首でも取ったように指摘します。

 これについて、注解書の解説を見ましょう。
「――、この一人称複数は、神が複数の存在であると言っているのではない。威厳、尊厳を現わす複数、思案、熟慮を表わす複数、あるいは三位一体を暗示する位格の複数などが考えられる。」(新実用聖書注解――創世記P122)

 とうぜんですが、ヘブル語の属性と日本語の属性とは、異なるのです。同じ日本語でも、わずか百年前と今では意味が異なるものがあります。平安時代の古文など、古語辞典や解説書なしには読めません。でなければ、翻訳されたものを読むのです。
 私はヘブル語がわかりませんから、旧約聖書を翻訳文で読み、さらに解説書を読むのです。翻訳を読むときは、翻訳して下さった方々の労苦を思い、感謝をしながら、まず、書かれたものを素直に読みます。
 旧約聖書はヘブル語で書かれていて、そのオリジナルが書かれたのは、三千年も昔なのです。
 もし、翻訳聖書の言葉を取り上げて批判するなら、不完全な翻訳(どんなに正確に訳しても、翻訳はオリジナルとぴったり重なることはないのですから)などを見ないで、オリジナルの文書――その文化的背景も含めた深い思索と研究をしたうえで、批判すべきではないでしょうか。

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 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6章8節)

 口を聖めていただいたイザヤは、主の呼びかけに、ためらうことなく応答しました。これまででも(5章まで)、イザヤはすでに預言をしていたのです。ところが、ここで、イザヤ自身、明確な主の召しを「知った」かのようです。主が改めて、より高い次元でイザヤをお召しになったとも言えます。
 善王であったウジヤ王が死んだのです。ウジヤ王の時代は、長く安定した治世でした。十六歳でユダの王となり、エルサレムで五十二年間、王であった(U歴代誌26章3節)のです。彼の死は、ユダ王国の隆盛に大きな影を落としました。

  すると仰せられた。
  「行って、この民に言え。
  『聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。』(9節)
  この民の心を肥え鈍らせ、
  その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。
  自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、
  自分の心で悟り、
  立ち返って、いやされることのないように。」(10節)


 主は、イザヤに、「行って民に語るよう」に仰せなのですが、その内容は奇妙です。
 「語って、わからせよ」ではなく、「悟るな。知るな」。「耳を遠くし、目を閉ざさせよ」。
 それというのも、イスラエルの民が、「自分の心で悟り、立ち返って、いやされることがないように」なのです。

 なんと厳しい、突き放した言葉でしょう。これでは、イスラエルを、暗やみの中に放置せよと言われているのと同じです。そこで、イザヤは聞き返します。

  「主よ、いつまでですか。」(11節)






posted by さとうまさこ at 10:07| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする