2014年01月22日

Coffee Break預言書・イザヤ書22、主よ。いつまでですか。(イザヤ書611節〜13節)



 誤解を恐れず、預言者を現代にあてはめてみると、評論家、アナリスト、批評家。少し俗な言葉では、「ご意見番」「予想屋」とでもいうのでしょうか。さらに、占い師なども入るかもしれません。マスコミでは、毎日、世界情勢の分析から国際情勢の予想、社会を批評し、未来を語るこのような「先見者」を見るのです。

 しかし、彼らがどれほど真剣であっても、もちろん、聖書に出てくる預言者とは根本的に異なります。
 聖書における預言者は、神から召されて神の側に立ち、神のことばを語るのです。一方、今日の評論家、批評家、アナリストなどと括られる人たちは、どのように現状を分析し、誠実に意見を組み立てていても、しょせんは「人間の考え」なのです。バラ色の未来だけでなく、耳に痛い警告を語る人も確かにいますが、人間の判断です。そのために必要なのは、情報量、データですが、このような時代、個人で集めて処理できる情報には限りがあります。また、同じ事柄についても、互いに矛盾する情報があふれているのです。
 ひと頃、走るのが老化を防止し、健康をつくると奨励されたのに、いまでは、別の運動が勧められています。栄養も同じです。高齢者に肉がよくないと言われたのは昔の話、今では、牛肉をよく食べる高齢者は元気で長生きしているなどというのです。南京大虐殺のように、大きな意味のある歴史的事件、せいぜい七十年前の出来事でも、虐殺されたのは三十万人と見る人がいる一方、五万人、いや、南京大虐殺はなかったと言い出す人たちもいるのです。

 結局、どのような立場で、情報を集め語るかが勝負です。政治の中枢にいる人とそれをただ見上げている人たち、資産家と貧しい人たち、豊かな国と貧しい国、男と女、若者と年配者、親と子。折り合うはずもない立場をなんとか折衷して、厳しい意見を言う人もいれば、楽観的な夢を語る人もいます。甲論乙駁の背後に保身や売名が見え隠れし、マスコミも一つの産業、金もうけの手段、評論家などはしょせんある利益団体の「たいこもち」などと侮る人たちもいるわけです。

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 いっぽう、聖書に登場する預言者は、神の召命があって、初めて神のことばを預かることができるのです。自分の考えは違うと思っても、神が仰せになったらそのとおりに語らなければなりません。謝礼や名声は最初から想定外です。選ばれる基準も、人間的に見るところの「資格」のようなものはありません。モーセは、エジプトの王女の息子として育てられたへブル(イスラエル)人で高い教養があったのですが、それが神の選びの基準であると、神ご自身はどこにも仰せになっていません。ただ、「エジプトにいて奴隷として苦しんでいる同胞を連れ出せ」と命じられるのです。モーセは、自分が「口下手」であると何度も辞退するのですが、聞いてはいただけません。その代り、神はモーセの働きに最大の援助を約束して下さるのです。有名な奇蹟の数々はこの約束の現れです。
 サムエルはまだ子供だったときに、神様のことばを聞きましたし、士師記の時代のデボラは、夫がいる普通の女性でした。エリシャは、畑仕事の途中エリヤに声を声を欠けられたのですから、農夫だったのでしょう。田舎の片隅で暮らしている無名の預言者もいます。エレミヤは祭司の家柄に生まれて、まだ若いときに召命を受けました。

 イザヤは王族に連なる名門の生まれでしたから、政治的顧問のようなこともできたでしょうが、あくまで預言者として、神に従ったのです。

 神が、イスラエルの民に「悟らせるな。(事実を)知らせるな」とイザヤに仰せになったとき、イザヤは、反論したくなったはずです。
 けれども、主のことばを受け入れるのです。

 私が「主よ。いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。
  「町々は荒れ果てて、住む者がなく、
  家々も人がいなくなり、
  土地も滅んで荒れ果て、(イザヤ書6章11節)
  主が人を遠くに移し、
  国の中に捨てられた所がふえるまで(12節)
  そこにはなお、十分の一が残るが、
  それもまた、焼き払われる。
  テレビンの木や樫の木が
  切り倒されるときのように。
  しかし、その中に切り株がある。
  聖なるすえこそ、その切り株。」(13節)


 主がイザヤにお与えになったのは、ユダの崩壊のまぼろしでした。






posted by さとうまさこ at 09:32| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする