2014年02月01日

フィリピン宣教旅行に参加しています。



いつも訪問してくださってありがとうございます。
旅行中もブログが更新できるようにと、パソコン、聖書などを携行しているのですが、
僻地めぐりの上、忙しくてアップできません。

こちらに来て驚くのは、子どもと犬が多いこと、教会が多いことです。

おおいに励まされています。

 ハレルヤ
    さとうまさこ





posted by さとうまさこ at 22:51| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月09日

通読エッセイ再開について



       狼は子羊とともに宿り、
       ひょうは子やぎとともに伏し、
       子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、
       小さい子どもがこれを追っていく。
       雌牛と熊とは共に草をはみ、
       その子らは共に伏し、
       獅子も牛のようにわらを食う。
       乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
       乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
       わたしの聖なる山のどこにおいても、
       これらは害を加えず、そこなわない。
       主を知ることが、
       海をおおう水のように、地を満たすからである。
                     (イザヤ書11章6節〜9節)






   降雪お見舞い申し上げます。

   暦の上では春になったというのに、日本中が大雪に見舞われたようです。
   皆さんのところでは、いかがでしたでしょうか。
   お見舞い申し上げます。
   私はフィリピンから戻ってくるなりの雪で、すっかり震え上がってしまいました。

   旅行中も訪問して下さった方々に、お礼とお詫びを申し上げます。
   明日から、ふたたび、聖書通読エッセイを再開したいと念願しています。
   お祈りくださいまして、訪問していただければ、うれしいです。
  
   よろしくお願い申し上げます。               さとうまさこ





           
posted by さとうまさこ at 09:00| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月10日

Coffee Break預言書・イザヤ書23、叛きの王アハズ(イザヤ書7章1節〜9節)



 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。(イザヤ書7章1節)

 イザヤが預言者として活動したのは、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代でした。とくに、6章1節には、ウジヤ王の死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。とあります。
  ウジヤもヨタムも、多少の問題はありましたが、「主の目にかなったことを行なった王」でした。ところが、アハズは違いました。

 アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデと違って、主の目にかなうことを行なわず、(U歴代誌28章1節)
 イスラエルの王たちの道に歩み、そのうえ、バアルのために鋳物の像を造った。(2節)
 彼は、ベン・ヒノムの谷で香をたき、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもたちに火の中をくぐらせた。(3節)
 さらに彼は、高き所、丘の上、青々と茂ったすべての木の下で、いけにえをささげ、香を炊いた。(4節)


 続くU歴代誌には、主を捨てバアルに従ったアハズの不信仰がユダを苦境に陥れた様子が記されています。ユダはアラムに攻められ、アラムと同盟した同胞イスラエル(北王国)に、多くのユダの人々が捕虜になって連れ去られてしまうのです。
 7章1節は、このときの様子を語っています。じっさいには、ユダは完敗を回避できたのですが、アラムとイスラエルの同盟に、ユダ王国の王も民もすっかり脅えたのです。(2節)

 主は、ここでイザヤに語りかけられたのです。

 「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端にアハズに会い、(3節)
 そこで彼に言え。
 気を付けて静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。(4節)
 

★★★★★

 「神である主はこう仰せられる。
 『そのことは起らないし、ありえない。(7節)
 実に、アラムのかしらはダマスコ、
 ダマスコのかしらはレツィン。
 ――六十五年のうちにエフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。――(8節)
 また、エフライムのかしらはサマリヤ、
  サマリヤのかしらはレマルヤの子。
  もし、あなたが信じなければ、
 長く立つことはできない。』」(9節)


 これは、アハズとユダの民が恐れた困難な状況を、神ご自身がもつれた糸を解くように、解説して下さっているのです。
まず、結論として、アハズヤユダの民が恐れていることは起らないと断言して下さっています。
アラムという得体のしれない敵は、しょせんダマスコに根拠地を置く王レツィンに要約される。エフライム(北イスラエル)は、今は強そうだけれど、六十五年後には、もう国家として存在しないと言うのです。
 
 イザヤがこの預言をしているのは、アラム――エフライム戦争当時(BC
733年頃)と考えられる(新実用聖書注解・いのちのことば社)
ので、その65年後はBC668年です。北イスラエルは、BC722年に、アッシリヤの猛攻で滅ぼされています。
 主(神)は、北王国の滅亡を明確にイザヤの口を通して語られたのです。

 つぎの問題は、神のことばを受ける人間の側にあります。




 

posted by さとうまさこ at 11:35| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月11日

Coffee Break預言書・イザヤ書24、叛きの王アハズ2(イザヤ書7章10節〜13節)



 私たちは、長いトンネルの中を歩んでいると思える時、大きな壁が立ちはだかっていると思える時、そうした状況で足も萎えて倒れそうになった時、この先どうなるのだろうといぶかり、そのまま潰れてしまう気がします。
 じっさい、「マイナスのスパイラル」という言葉があるように、恐怖や不安は、しばしば事態をいっそう悪くします。
 モーセのあとを継いで、イスラエルのリーダーとなったヨシュアに、主が「強くあれ。雄々しくあれ。」(ヨシュア記1章6節)と励ましておられるのは、ヨシュアがイスラエルの民を率いて未踏のカナンに入って行く使命は、恐怖や弱気があってはとうてい達成しえない道のりだったからでしょう。

★★★★★ 

 ヨシュアは預言者でもありましたから、直接神のお声を聞くことができました。
 しかし、バアルに膝をかがめる偶像崇拝者アハズは、北イスラエル王国とアラムが同盟を結んで自分たちを攻めてくる(らしい)と聞いただけで、「林の木々が風で揺らぐように動揺した」のです。
 そこで、主は、イザヤを通して語られるのです。偶像の神ではなく、ご自分(イスラエルの神)に求めなさい。必要なら(しるしも)与えよう。

 主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。(イザヤ書7章10節)
 「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」(11節)
 するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」(12節)


 このあたりの解釈は難しいですね。言葉が、文脈の中で反転していると思えるからです。私にヘブル語の知識があれば、それも、この記事が書かれたころのへブル語に通じていれば、と歯噛みするのは、このような箇所です。

 聖書では、特に、新約時代以降の私たちにとっては、「しるしをもとめる」のは、あまり良い信仰態度とは言えません。イエスさまは、「見ずに信じる者は幸いです。」と、トマスに仰せになったのです(ヨハネの福音書20章21節)。もともと、しるしや不思議は人の願いで現れる出来事ではなく、信仰の幼い弱い人間が、神を信じることができるように、どうしても必要な時に、神ご自身が下さるものであると思います。
 天に通じる梯子を見たアブラハムの孫ヤコブ(創世記28章11節〜15節)。王の夢の意味を言い当てるヨセフのふしぎな能力(創世記41章25節〜36節)
 何よりも、出エジプトに際して神が行われた数々のしるしと不思議。

 しかし、主は、アハズに、「しるしを求めよ」と仰せなのです。
 アハズの答えがふるっています。「私はもとめません。主を試みません」。

 ★★★★★

 「神を試みてはならない。」は、聖書の神に対する大きな原則です。申命記で、モーセは厳しくイスラエルの民を戒めています。

 あなたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6章16節) 

 イエスさまも荒野の40日の断食のあと、悪魔に試みられたとき、聖書の言葉を用いて悪魔を退けられています。(マタイの福音書4章6節7節) その一つが、申命記6章16節です。

 アハズのこの答えが、文脈の中で反転しているのは、アハズがイスラエルの神を捨ててバアルを拝んでいる者だからです。彼は祖父ウジヤ、父ヨタムとは対照的な信仰態度だったのです。でも、教育を受けたイスラエルの王ですから、一応アブラハム、イサク、ヤコブの神への知識はきちんと入っていたのでしょう。そして、ここで、自分が神のことばを拒むために、聖書を引き合いに出しているのです。

 何とも皮肉で、おかしみのある箇所です。自分の立場やプライドを守りたい時、苦し紛れに、とつぜん従ってもいない権威を引き合いに出すのは、案外だれでもすることかもしれません。
 これは、イザヤを怒らせました。

 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。(13節)








posted by さとうまさこ at 10:02| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月12日

Coffee Break預言書・イザヤ書25、しるしを求めよ(イザヤ書7章11節〜13節)



「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは上の高いところから。」(イザヤ書7章11節)
 すると、アハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」(12章)
 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。(13節)


 アハズに「しるしを求めよ」と仰せになる主の真意はどこにあるのでしょう、と私は考えています。

 新約の信徒にとって「しるしを求めること」は、けっして奨励されることではなさそうです。イエスさまは、「見ずに信じる者は幸いです。」と、トマスに仰せになったのです(ヨハネの福音書20章21節)

 私たちが生きているこの世界は「肉の世界」ですから、その法則や規則は、おおむね目に見えるものが基準になっているのです。私たちは、肉体に栄養を与えて十分の休息を取り、毎日力を新たにし、その力で仕事をし、子どもを育て、社会を運営し、交際し、気晴らしをしています。そこからまた、新たな糧を得、おいしいものを食べたり、欲しいものを得て、ちょっとリフレッシュし、その循環で生きているのです。
 目に見える食物を買うためには、目に見える対価(お金)が必要です。いいえ、良い団欒のために住まいも、質の高い睡眠のためのベッドも、快適な温度に保たれた部屋もすべてお金で贖われるのです。すでに、十分な資産をもっているのでなければ、だれでも働いてこのお金を得なければなりません。お金を得るためには、なんらの形で「儲ける」必要があります。あるいは、年金や利息のように、お金が流れるシステムの中にいなければなりません。
 これはあまりに自明のことなので、ふだん深刻に考えませんが、この循環が機械的にスムーズにすべての世界に行き渡り、すべての人が潤沢にこの恩恵に浴しているかどうかが、しばしば問われているのです。多くの競争や争いが、じつは、この金の流れを巡って起こっているのは、疑う余地がありません。これはまた、国と国、人と人を対立させるだけでなく、同じひとりの人間としても、外なる自分と内なる自分を対立させます。

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 私たち人間は、どんなに唯物主義者、金銭崇拝者であっても、目に見えないものの価値について、「知っている」と私は思います。「こころが痛む」「こころが騒ぐ」「心踊る」という言葉を聞いて、「心とは何だ。どこにあるんだ?」と食ってかかるような人はいないでしょう。「気に病む」「気が晴れる」なども、同じです。どんな唯物主義者でも、「心、精神、気」などを認めているのです。
 「それがどうした。さっさと出かけて田を耕せ」と怒鳴るとしても、そのように叱咤する上役や親もまた「心さわぎ」「心が萎える」ことがあるのです。肉体も確実に衰え、やがて死んでいくのです。

 目に見えるものは滅びると確実にわかっているからこそ、いっそう熱心に富を積もうとします。記念碑や銅像を建てる人もいます。死後まで残る業績にこだわる人もいます。
 およそ聡明な人なら、「目に見えるもの」が「目に見えない何か」に支配されていることに気がつかないはずがありません。また、目に見えない何かが、私たちの世界の背後にいてこの世界を動かしているのを感じる人もいるでしょう。
 ただ、自分の力を信じ、その力を信じている人は、見えない世界でさえなんとか「見えるもの」として支配しようとするのですね。
 
 私は、非常に抹香(まっこう)臭い空気の地域で育ちましたから、まわりに神仏や霊を恐れている人をたくさん見て来ました。りっぱな家の中で大きな仏壇がうやうやしく扱われ、抜け目のない商売人である人が、神社で大枚(たいまい)をはたいて大きな「お札(おふだ)」を買って帰るのも見ました。

 
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 でも、私たちは、大きなお札に望みを託す人を笑えるでしょうか。大きなお札は、「今年、えらい儲けさしてもらい、ありがとうございます」の意味か、「来年こそ、よろしく」の意味かでしょうが、いずれにしても、「しるし」を買い取ったのです。もし、願うとおり商売がうまくいけば、「ご利益があった」となるでしょう。思わしくなければ、もっと大きなお札を買うか、べつの神様にお願いに行くかすればいいのです。さらに、詳しく指南を仰ぎたい人は占い師や祈祷師のところに行くかもしれません。

 偶像礼拝は、自分の力を頼む人にとっては、ごく当たり前のことではないでしょうか。見えない方(神)を見ようとするより、見える自分の力を見る方が簡単だからです。主(神)からしるしをいただくのは容易ではありませんが、自分で「しるし」を作るのは、能力と財力があればできないわけではありません。いえ、石ころ一個であっても、礼拝の対象とするつもりなら、出来るのが偶像礼拝です。
偶像礼拝は、その意味では、人間の「自己中心の心」そのものに思えます。

 
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 イエス様が「見ないで信じる者となりなさい」と言われたことは、イエス様が、奇跡やしるしをおできにならないからでないことは、聖書を読めば自明です。
 イエス様は、公生涯の間中、たくさんの奇蹟を行ない、しるしを見せられました。多くの病人を癒し、嵐を叱って静め、わずかなパンと魚から5千人に給食をなさいました。聖書の神は、何もないところから天地万物を創造する力をお持ちなのですから、奇蹟など簡単なことです。
 ただし、それは神のなさることであり、神の御手にあるのです。私たちが願ったからと言って、何の理由もなく下さる物ではなさそうです。
 
 アハズに「しるしを求めよ」と主が仰せになったのは、アハズには、「しるし」を見せる必要があったからに違いありません。アハズは、バアルを拝んでいました。しかし、アラムとエフライム(北王国)が同盟して攻めてくると聞いただけで、すっかり落ち込んでしまいました。
 この、ユダ王国の危機にあたって、主(神)は、アハブの信仰を彼の祖父ウジヤのようにイスラエルの神に戻ってほしいと願われたに違いありません。アハズのような弱い人間は、「しるしを見たら信じたはず」です。
 それなのに、アハズは、しるしをいただくのを拒否したのです。
 彼は、間違いに間違いを重ねているのです。
 イザヤが、「私の神までも煩わすのか」(13節)と、言った時の怒りが見えるようです。



posted by さとうまさこ at 12:35| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする