2014年08月01日

Coffee Break預言書・イザヤ書176 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。(イザヤ書59章1節〜11節)



 私たちと主を隔てているのは私たちの罪だというのは、聖書の出発点だと思います。
 罪を犯して楽園を追放された私たちは、断崖を滑り落ちて海の荒波が打ち付ける岩の上で震えている状態と言うべきなのかもしれません。見上げれば、もといた場所ははるかに目の先、まるで天のように高いのです。とても、自分の力で上って行けそうもありません。岩棚には、じりじりと波が押し迫って、いつ大波にさらわれてしまうかもしれないのです。
 
 私たちは、叫び声を上げます。「助けてください」と懇願もします。
 はるか彼方からですが、「いま助けるよ」との声も聞こえてきます。「必ず、引き揚げるから」。
 ところが、私たちは、助けを待つすべがわかりません。綱が降ろされてくるかもしれないから、一番良い場所で最初に綱を掴みたいと右往左往します。兄弟であっても、綱を取る場所を争って喧嘩をし、相手を殺してしまいます。

 いつ来るかわからない救助を待つより、今を楽しもうという誘惑が満ちて来ます。風がよけられる日当たりの良い場所、おいしい食物が容易に手に入る場所を争って、また殺し合いをします。どうせ死ぬのだからと、性的快楽や酒や飽食に身を任せます。多く集めて、囲い込み、多く集められなくて死にそうな仲間を岩棚から突き落とします。

 もちろん、時々は、救助を待っていることも思い出すのです。何故岩棚から落ちたか、その最初のいきさつも思い出します。自分の過ちを謝罪します。はるか上で、見ているはずの救助者へせめてものお礼と言わぬばかりに供え物をします。
 悔い改めには断食と荒布が有効だと考えて断食もします。
 それでも、危険は去りません。高波はいつ岩棚全体を洗い流してしまうかわからず、地震が岩棚を沈めてしまうかもしれません。
 それどころか、仲間である人間同士で、いつ果てるともない殺し合いが広がっているのです。
 すると、疑いが頭をもたげます。「いったい、助けは来るのか」と、ついに叫び出すのです。いったい、救い主はどこにいると、毒づく声が起るのです。そこで、神は、預言者の口に、み言葉を授けて言われるのです。

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見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて、聞こえないのではない。(イザヤ書59章1節)


 この箇所も有名な聖句です。シナイを出発したイスラエルの民が、パランの荒野で「肉が食べたい。エジプトでは魚やたくさんの野菜をただで食べていたのに、いまや、マナを見るだけだ」と不満を漏らしたとき、民から責められて苦しむモーセに主は仰せになりました。
「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」(民数記11章23節)
 
 断崖の上から伸ばして下さる救いの手は、十分に長いのです。また、私たちの叫ぶ声を聞きとれないような主(神)ではないのです。
 主は、私たちの苦しみの声も聞きとられ、七十億のでも百億でもひと掬いで助け上げることのできる手をお持ちなのです。

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 私たち自身が、仕切を作るのです。たがいに相争い、誇り合い、競いあい、心からの悔い改めを、人間の業とすり替え、救いの手の前を逃げ回っているような状況を造りだしているのです。

 あなたがたの咎が、
 あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、
 あなたがたの罪が御顔を隠させ、
 聞いてくださらないようにしたのだ。(2節)


 さとうのたとえは、あまりに婉曲です。イザヤは次のように言うのです

  実に、あなたがたの手は血で汚れ、
  指は咎で汚れ、
  あなたがたのくちびるは偽りを語り、
  舌は不正をつぶやく。(3節)
  正しい訴えをする者はなく、
  真実をもって弁護する者もなく、
  むなしいことにたより、うそを言い、
  害毒をはらみ、悪意を産む。(4節)
  彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。
  その卵を食べる者は死に、
  卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。(5節)
  そのくもの巣は着物にはならず、
  自分の作ったもので身をおおうこともできない。
  彼らのわざは不義のわざ、
  彼らの手のなすことは、ただ暴虐。(6節)
  彼らの足は悪に走り、
  罪のない者の血を流すのに速い。
  彼らの思いは不義の思い。(7節)
  破壊と破滅が彼らの大路にある。
  彼らは平和の道を知らず、
  その道筋には公義がない。
  彼らは自分の通り道を曲げ、
  そこを歩む者はだれも、平和を知らない。(8節)

  それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、
  義は私たちに追いつかない。
  私たちは光を待ち望んだが、
  見よ、やみ。
  輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。(9節)

  私たちは盲人のように壁を手さぐりし、
  目のない者のように手さぐりする。
  真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、
  やみの中にいる死人のようだ。(10節)
  私たちはみな、熊のようにほえ、
  鳩のようにうめきにうめく。
  公義を待ち望むが、それはなく、
  救いを待ち望むが、
  それは私たちから遠く離れている。(11節)






                 ※聖書の引用は新改訳聖書を使わせていただいています。




posted by さとうまさこ at 09:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月02日

Coffee Break預言書・イザヤ書177 それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、(イザヤ書59章9節〜16節、創世記1章26節、同2章7節))



 同じように「罪が仕切となっている」状態を言い表すのに、イザヤ書59章1節から8節までは、神さまからの視点で語られています。
 ところが、9節からは、「あなたがた」の代わりに、「私たち」が使われています。イザヤは、神のことばを受けて神の目線から語り、また、それに対応して人の立場でも語っています。このような視点の交錯は、神と人との関係に、ドラマのような奥行きを与えていると思われます。

 聖書の神さまは、しばしば「生ける神」と表現されます。人をお造りになったその最初から、人に対して「対話をする」ことで愛をお示しになっています。これは、ある意味で不思議なことです。宇宙のすべてをお造りになり、すべてを所有され、すべてに主権を握っておられるお方が、「語り合う相手として」人間をお造りになったのです。

 神は仰せられた。「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて、彼らが海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」(創世記1章26節)

 この創世記の記述は、神様にとって、人間は特別な被造物であったことを教えています。「われわれのかたちとして、われわれに似せて」造られたということは、共通の何かで「語り合える」ことを意味しているでしょう。

 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きる者となった。(創世記2章7節)

 人が神様と語り合う手段は、神から吹き込まれた「いのちの息」です。Coffee Breakモーセ五書(創世記)でも書きましたが、神様からいのちの息を吹き込まれて「生けるものとなったのは」多くの動物たちの中で、人間だけです。それは、神様が最初から、対話できる相手として人間を造られたからでしょう。

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 神さまから厳しい叱責を受けた「私たち」が答えます。

  それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、
  義は私たちに追いつかない。
  私たちは光を待ち望んだが、
  見よ、やみ。
  輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。(9節)

  私たちは盲人のように壁を手さぐりし、
  目のない者のように手さぐりする。
  真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、
  やみの中にいる死人のようだ。(10節)
  私たちはみな、熊のようにほえ、
  鳩のようにうめきにうめく。
  公義を待ち望むが、それはなく、
  救いを待ち望むが、
  それは私たちから遠く離れている。(11節)

  それは、私たちがあなたの御前で
  多くのそむきの罪を犯し、
  私たちの罪が、私たちに
  不利な証言をするからです。

  私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、
  私たちは自分の咎を知っている。(12節)
  私たちは、そむいて、主を否み、
  私たちの神に従うことをやめ、
  しいたげと反逆を語り、
  心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。(13節)
  こうして公正は退けられ、
  正義は遠く離れて立っている。
  真理は広場でつまずき、
  正直は中にはいることもできない。(14節)
  そこでは真理は失われ、
  悪から離れる者も、そのとりこになる。(15節a)


 ここで、「私たち」を代弁しているのは、イザヤ自身だと考えられます。預言者イザヤは神と人との仕切が、完全に、人間の側の罪によるのを認めているのです。
 これこそ、ほんとうの断食です。荒布を着て、頭から灰を被って悔い改めている姿です。
 しかし、神は愛なる方です。「それ見ろ。悪いのはおまえだ。もっとささげ物を持って来い」などと、仰せになりません。

  主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。(15節b)
  主は人のいないのを見、
  とりなす者のいないのに驚かれた。
  そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、
  ご自分の義を、ご自分のささえとされた。(16節)






posted by さとうまさこ at 09:32| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月03日

Coffee Break預言書・イザヤ書178 主はとりなす者のいないのに驚かれた(イザヤ書59章11節〜16節)



  私たちはみな、熊のようにほえ、
  鳩のようにうめきにうめく。
  公義を待ち望むが、それはなく、
  救いを待ち望むが、
  それは私たちから遠く離れている。(イザヤ書59章11節)


 イザヤ書59章で、神様の視点からイスラエルの罪の仕切の壁を弾劾したイザヤは、9節からはイスラエルの民自身の視点で悔い改めを語っています。
 9節からの悔い改めの告白は、とても痛ましく響きます。救いを待ち望んでも、それは遠く離れているので、みな「熊のようにほえ」「鳩のようにうめく」と言うのです。

 そのような人の苦しみに、主ご自身がお答えになるのが、15節から21節までです。

  主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。(15節b)

 泣き叫ぶ子供を見て、心を痛めない親はいません。親ならば、たとえ悪いことをした子供でも許して、その子を呼び戻し腕の中に抱きしめたいのです。ただし、赦すのにも方法を選ばなければなりません。ただ、可愛いだけで「戻って来ていいよ」と言えば、子どもは「泣き叫べばいい」と、思うかもしれません。時間がたてば、また同じ過ちを犯すかもしれません。悪いことをしても、決定的な罰がないなら、うまく不正を行なった者が得をするなどと間違った学習をするかもしれません。
 
 主は、赦して救いを与えるためには、子どもが作り変えられて失敗から学び、二度と罪を犯さないと自覚することを望まれるでしょう。
 その意味で、神様と罪びととの間に立って、とりなしをし、何が間違っていたのかを気付かせる「とりなす者」が必要です。
 ところが、人間の側にはとりなす者はないのです。「義人はいない。一人もいない」のが、人間の現実です。

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  主は人のいないのを見、
  とりなす者のいないのに驚かれた。
  そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、
  ご自分の義を、ご自分のささえとされた。(16節)


 新約の民である私たちは、ここに書かれている主の御腕が何を意味するのか、わかりますね。
 主は、人の仲の仲介者、例えば、大祭司や預言者の限界をご存知です。主は、主ご自身で、神様の側から、仲介者を送って「赦し」を現実のものとされるのです。御子キリストは、人が神さまの御許に帰るために、どうしても必要な、しかも、この上ない素晴らしい仲介者でした。神様でなければ、思いつかない、神様でなければ行えない救いへの道だったと、今の私たちは、知るのです。

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 最初の人間、アダムとエバは「善悪を選択する自由のある」人間として造られました。そこで、悪魔が誘惑をして、彼らに禁じられている「知恵の実」食べさせました。その結果、彼らに(私たちに)罪が生まれたのです。(創世記3章1節〜7節)

 ふたたび、神様の御許に戻る人間は、「善悪を選択する自由」をもちながら、ぜったいに悪魔の誘惑に陥らない者でなければなりません。アダムとエバから一貫して同じ人間でありながら、生まれたばかりの時の、ナイーブな子どもであってはならないのです。

 お手本は、結局、イエス・キリストです。つまり、神ご自身なのです。
 私たちの間には、自分より優れた人間が大勢、それこそ星の数ほど存在するのを認めるのですが、それでも人は、絶対に正しくはあり得ないのです。(ヨブ記4章17節)
 イエス様が自ら血を流して私たちの罪を背負って下さったこと、その義性の大きさを思う時、私たちは「二度と罪を犯しません」と誓った者と見なされ、イエス様のお名前を唱えて、後に従うだけで、もう一度、神様の御許に戻れるのです。

 ほんとに、こんな福音(G00d News)があるでしょうか。







posted by さとうまさこ at 08:22| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月04日

Coffee Break預言書・イザヤ書179 いのちの教育


 
 説明のつかない無残な事件が起きると、それらしい専門家の方々がいろいろとコメントを述べられます。専門家でない芸能人がニュース兼バラエティ番組に招かれた結果、何かを言わなければならない局面もあるようです。
 なにしろテレビは、わかりやすく「楽ちん」な情報収集源です。チャンネル切り替えのリモコンにはたくさんのボタンがついていますが、でもパソコンよりは操作が簡単ですし、おしゃべりしながら、何かを食べたり飲んだりしながら、郵便物を見ながら、半分だけ意識を向けていても大丈夫なように、情報が単純に面白く整えられています。
 そんなわけで、恐ろしい事件は、非常に簡明端的に「恐ろしい事件」として、できるだけわかりやすい周辺情報とともに、印象的に盛り付けられて提出されます。

「優秀な子どもであった」「エリート一家であった」「問題児だった」「親が問題にきちんと対応してこなかった」と言った結論を、それを証拠立てる「事実」とともに並べ立てるわけです。

 事件の原因や責任は、親は別として、最後は「だれ」とは特定できない「教育機関」の責任だったりします。「いのちの大切さを教える教育」を続けていたのに、届かなかった・・・。
 でも、そのテキストの一冊は、よく知られていて売れている絵本だったりするのです。

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 感動的な話を聞かせて、「だからいのちは大切なんだよ」と言えば、子どもたちはうなずくことでしょう。ペットを飼って可愛がり、その世話をすれば、確かに「生きもの」との関係の切なさを体得するかもしれません。相手が人間でなくても、心のつながりを感じる人もいるでしょう。

 けれども、いのちは、率直に見ていると、いくらでも生成してくるものです。人は地球上に、いまや七十億人を数えるのです。その七十億の世界では紛争が絶えません。大切な命が、火薬や武器で吹き飛ばされ、また、闇から闇へと葬られています。

 平和で美しい自然、人間の英知とすべての美質が結晶したかのような芸術的な、整えられた街はたくさんあり、私たち日本人の大部分は、げんに、そのような平和で美しい国に暮しています。衣食住のすべてにわたって、十分に供給されて当たり前であり、快適であって当然というなかで、猟奇的な方法で殺人が行われたりすると、まるで、エイリアンが行ったかのように、突き放した目で、他人事のように「コメントを述べる」のです。

 「命の教育」をするなら、いのちはおびただしく生まれると同時に、おびただしく死んでいるという「現実」を見据えなければならないと思います。他者のおびただしい「死」に、自分がどのように加担しているのかを知らなければならないと思います。
 しかし、もちろん、咎めているのではないのです。他者のいのちを奪うことに加担しないでは、だれしも、生きていけないのです。この場合の、「いのちを奪う」は、もちろん、直接の殺人を意味してはいません。

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 なぜ、人を殺してはいけないのか。残酷な方法で人や動物を扱ったり、殺したりしてはいけないのか。その理由はただ一つだと思います。
 地球上にある現象をどれほど分析したり、学んだりしても答えが出るでしょうか。殺すのが悪い、いじめるのは悪いということは、だれでも、「知って」いるはずです。

 そもそも、犯罪を犯さないのは、「死刑があるから」「世間の非難があるから」「人生を台なしにするから」でしょうか。「死刑」も「世間の非難」も「台なしになるかもしれない人生」など、どうでもよいと思う魂には、そんな世俗の枷は抑止力になりません。

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 私たちが殺してはいけない理由は、ただ一つです。

 私たちのいのちは、神様がお造りになったからです。私たちが大切なのは、神様によって、神様のかたちに似せて造られているからです。

 その証拠を出せと言われるでしょうか。

 聖書があります。聖書に書かれています。

「聖書を開くなんて面倒」「あれはキリスト教のプロパガンダだ」「キリスト教は嫌いだ」と頭から否定する方も、たくさんいらっしゃるでしょう。

 そのような方でも、自分が特別な存在であることは「わかっている」のではと思います。

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 私たちは、「祈り」ます。クリスチャン同士でなくても、日常会話で、手紙で、ネット上で、テレビで、およそ、毎日のように、「お祈りします」ということばが、飛びかっています。

 だれに、祈るのでしょう。

 目に見えない全能の存在です。至高であって、全知全能であって、正しい方であって、それにまして、あなたを愛し、あなたの身の上を心配し、あなたを「決してはなさない」と言って下さる方でなければ、祈る意味がないでしょう。

 祈りは、意図しようとしまいと、神様との対話です
 
 人が特別な存在だというのは、人間だけが祈ることができるからです。どんなに賢くて、かわいくても、犬や猫は祈りません。
 人間だけが、神様と特別な関係をもっているのです。
 神さまがすべてのいのちを握っておられるのを知るとき、それは、私のいのちであるだけでなく、隣の人のいのち、ゆきずりに出会う人のいのちであっても同じだと、わかるはずです。

 いのちの教育は、いのちがどこから来るのか、いのちは誰のものかを教えなければ、意味がないと思います。



 

posted by さとうまさこ at 09:53| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月05日

Coffee Break預言書・イザヤ書180 主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり(イザヤ書59章17節)



 イザヤは、救い主が救いを行なえない理由を切々と描写しています。

 主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。私たちの罪が主と私たちの間の仕切となっている・・・。

  こうして正義は退けられ、
  正義は遠く離れて立っている。
  心理は広場でつまづき、
  正直は中に入ることもできない。(14節)
  そこでは真理は失われ、
  悪から離れる者も、そのとりこになる。(15節)


 悪から離れる者でさえ捕えられる、というのは、深刻ですね。この場合の悪から離れる者は、旧約時代ですから、きちんと律法を守って主を崇めているような人でしょう。そのような人たちでも、罪の世界のリスクにいつ足を掬われるか、解らないのです。私たちは自分の力だけでは、絶対的な義を獲得できないのです。

 ヨブのように正しい人であっても、サタンに試みられるのです。(ヨブ記1章2章)

  主は人のいないのを見、
  とりなす者のいないのに驚かれた。
  そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、
  ご自分の義を、ご自分のささえとされた。(16節)


 ヨブは試みにあって苦しみ、仲保者を望みました。(ヨブ記17章19節,19章25節) 
 仮に正しくても、自分でその潔白が証明できない者は、ヨブのように悲惨です。
 ヨブの時代からイザヤまでどれほど経っていたかなど、ここでは問題はないでしょう。
 主はすべてをご存じなので、ご自分がとりなす者となろうとされているのです。

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  主は義をよろいのように着、
  救いのかぶとを頭にかぶり、
  復讐の衣を身にまとい、
  ねたみを外套として身をおおわれた。(17節)


 救いのかぶとは、新約聖書でたとえに使われています。(エペソ人へ手紙6章17節、Tテサロニケへの手紙5章8節) 
 主が、救いのかぶとを頭にかぶって来られるというのは、追放された人間のために、救いが行われるということでしょう。

 聖書の神さまは霊であって、目に見えるのではありませんが、あえて映像的にその姿を描けば、救いのかぶとを被って来られる方なのですね。
 つまり、聖書の神は救い主です。創造主にして、救い主(キリスト)であればこそ、私たちはこの方に希望を託して見上げることができるのだと思います。

  主は彼らのしうちに応じて報い、
  その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、
  島々にも報復をする。(18節)
  そうして、西のほうでは、主の御名が、
  日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。
  主は激しい流れのように来られ、
  その中で主の息が吹きまくっている。(19節)
  「しかし、シオンには贖い主として来る。
  ヤコブの中の
  そむきの罪を悔い改める者のところに来る。」
  ――主の御告げ――(20節)




posted by さとうまさこ at 09:36| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする