2014年09月02日

Coffee Break預言書・イザヤ書207 エルサレムとともに喜べ(イザヤ書66章5節〜11節)



  主のことばにおののく者たちよ。
  主のことばを聞け。
  「あなたがたを憎み、
  わたしの名のためにあなたがたを押しのける、
  あなたがたの同胞は言った。
  『主に栄光を現わさせよ。
  そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』
  しかし、彼らは恥を見る。」(イザヤ書66章5節)


 もうじき、クリスマスがやってきます。イエス・キリストのご降誕を記念するキリスト教の大切な祝祭日です。罪の世界に堕ちた人間のためにいつか救いが来るというのは、聖書の最初からの神の宣言であると、思います。
 神の救いのご計画には様々な曲折がありました。「いったい神はどこにおられるのか」と人間はつぶやき、また「神はいない」と言い切り、あげくに、『主に栄光を現わさせよ。
 そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』と、神を求める人を嘲笑するまでに堕落して行くのです。これは、サタンが人間に働きかけ続け、楽園から追放されたのちも人間がサタンに操られていたからです。

 神はサタンより力ある方ですから、着々と救いのご計画を進めておられたのです。それは、ある日、思いもかけない形で現実のものとなるのです、それが、救い主の人間世界への来臨です。
 そのとつぜんの、神のみわざをイザヤは謳いあげているのです。

  彼女は産みの苦しみをする前に産み、
  陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。(7節)
  だれが、このような事を聞き、
  だれが、これらの事を見たか。
  地は一日の陣痛で産み出されようか。
  国は一瞬にして生まれようか。
  ところがシオンは、
  陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。(8節)
  「わたしが産み出させるようにしながら、
  産ませないだろうか。」と主は仰せられる。
  「わたしは産ませる者なのに、
  胎を閉ざすだろうか。」と
  あなたの神は仰せられる。(9節)

 ふつうは、国は、一瞬にして生まれるものではありません。激しい闘争や長い時間の結果成立するのです。ところが、地上の神の国はとつぜんに生まれるのです。救い主は、救い主を嘲笑していた者の前に、奇跡のように立ちはだかるのです。

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 楽園から追放される前に、神は、人間を誘惑した蛇(サタン)に仰せになっています。

  「わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼はおまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとに噛みつく。」(創世記3章15節)

 ここでは、サタンの頭を踏み砕くのが、「救い主」だと、まだ具体的に書かれていませんが、パウロはローマ書で次のように引用しています。

 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ人への手紙16章20節)

 キリストの生涯はまさにいばらのかんむりと十字架で現わされるような苦難の道でした。ところが、それは、人類の歴史始まって以来の祝福でした。
 それゆえ、神は次のような預言をイザヤの口に置かれるのです。

  エルサレムとともに喜べ。
  すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。
  すべてこれのために悲しむ者よ。
  これとともに喜び喜べ。(10節)
  あなたは、
  彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、
  その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。(11節)






posted by さとうまさこ at 09:59| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月03日

Coffee Break預言書・イザヤ書208 あなたがたの骨は若草のように生き返る。(イザヤ書66章10節〜14節)



 私たちが主イエスによって贖われた事実は喜びです。教会がクリスマスをお祝いするのは、しぜんなことです。遠い日、先祖アダムとエバが犯した罪のために、私たちは罪の世界で苦しんできたのです。とりわけ神の選びの民として神の救いのご計画のために育成されていたイスラエル民族は、神様から厳しいお取り扱いを受けています。

 聖書のテーマと物語は、イスラエルをシフトしていて、異邦人、異民族は、選ばれた民であるか、それ以外のものであるかの区別でしかありません。聖書の初めからいろいろな国の名前が登場し、アブラハムの神以外を信仰する民もたくさん登場して来ますが、その違いを引く一線は、血族かどうかではありません。アブラハムの子がすでに、イサクとは別物として、分かたれています。イサクの子エサウもヤコブも、神の選別に遭いました。これは、エサウが長子である責任を自覚せず、一時の空腹のためにヤコブに長子の権利を譲り渡したからだと説明されています。けれども、この選別は、もっと厳粛ないわば神の「奥義」から出たものではないかしらと、さとうは思うのです。父イサクがひいきしていた息子だったのに、エサウは神の選びの民の外に置かれてしまいました。
 跡継ぎは一人で良いと神様がお決めになっていたとは言いきれません。ヤコブの十二人の息子はすべてイスラエル民族として、神の救いのご計画を担うこととされたからです。

 選びから外された民については、イスラエル民族と関わりがあった場合に限り、言及されているだけです。エドムやモアブやアモンやアマレク、後のアラムやツロ、アッシリヤ、バビロンなどは、すべて、イスラエルの民との接触があったから、その名が登場してくるのです。
 異邦人、異教徒の「罪」については、彼らの偶像礼拝に焦点が当たっていて、彼らがイスラエルに「偶像礼拝を持ち込んだ」罪について神の怒りの対象となっています。ですが、彼らの苦しみについては、また、彼らも地上的な苦しみからなんらの救いを求めていたかもしれないといったことは、散見できるだけです。聖書がイスラエル民族に与えられたものなのだから当然なのです。

 アブラハムから、さらに遡れば彼ら異邦人も、アダムとエバの子孫、さらに、ノアの家族から別れたのがわかります。正しい人ノアから別れ出た人間さえ、すぐに罪に罪を重ねたことも書かれています。

 楽園追放前に、神がサタンを叱って言われた「彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく。」という宣告は、しかし、神のご計画として直後から実行されていたのでしょう。

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 イザヤ書は、選びの民イスラエルの苦しみにシフトしながら、神が怒りを露わにしながらも、イスラエル(ここではユダ王国の民)に悔い改めを迫り、救い主の到来を告げる書ではないでしょうか。
 ですから、何度も何度も救いの希望が語られています。
 主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)のです。

 やがて、救い主が明確に預言され、その預言は今日イザヤ書を読む私たちの方が、当時の人たちより深く感動できると思えるくらいです。なぜなら、預言が実現したからです。
 イザヤ書53章は、救い主イエス・キリストを降されるという父なる神の、力強いお約束そのものです。

 
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 救い主が地上にお出でになって私たちの罪を贖って下さっただけでも、大変な祝福です。ものものしい祭祀儀礼の儀式に組み込まれ、ささげ物をもち、祭司に仲介してもらわなければ、神様のもとに行くことができなかったのに、いまでは、「イエス様のお名前でお祈りします」とイエス様のあとについて、「至聖所」に入って行き、神様に「アバ、父よ!」と甘えることができるのです。

 ここには、異邦人とユダヤ人の区別はなく、イエス様のお名前にすがる者は等しく同じ国(御国)の民とされるのです。

  エルサレムとともに喜べ。
  すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。
  すべてこれのために悲しむ者よ。
  これとともに喜び喜べ。(イザヤ書66章10節)


 御国を継ぐ者がエルサレムとともに喜ぶ、というのは、元異邦人であった私たちには抵抗感があるかもしれません。けれども、エルサレムがもともと(人にはわからなくても)神の救いの計画の中心地として置かれた都であるなら、それは、救いわれた異邦人が共に喜ぶことができるのです。

  あなたは、
  彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、
  その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。(11節)
  主はこう仰せられる。
  「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、
  あふれる流れのように国々の富を与える。
  あなたがたは乳を飲み、
  わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。(12節)
  母に慰められる者のように、
  わたしはあなたがたを慰め、
  エルサレムであなたがたは慰められる。(13節)
  あなたがたはこれを見て、心喜び、
  あなたがたの骨は若草のように生き返る。
  主の御手は、そのしもべたちに知られ、
  その憤りは敵たちに向けられる。」(14節)


 贖われ救われた人々は、それゆえ、乳を飲んで飽き足り、慰められ、若草のように生き返ることができるのです。


 


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2014年09月04日

Coffee Break預言書・イザヤ書209 見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。(イザヤ書66章15節〜17節)



 この時期、クリスマスを待つクリスチャンである私は、つい、救い主「来臨」の祝福に心が奪われます。救い主が来て下さることは、神と私たちの間を隔てていた咎を超えて神と相対できることなのです。旧約時代には、神の民イスラエルでさえ、神を思いながら神と直接語り合うことはできなかったのです。それは次のような理由からです。

   見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
   あなたがたの咎が、
   あなたがたとあなたがたの神との仕切となり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、
   聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ書59章1節2節)


 私たちの咎を引き受けて下さる方がこの地上にお出でになって、私たちは天地と私たちをお作りになった父なる神のふところに飛び込んでいけること、これを歓ばずにはいられません。
 教会が、その力のかぎりを尽くして、主がお出でになったことを世の中に告げ知らせたいのは当然です。そのために信徒たちが熱意や時間をささげるのも自然です。

 パウロが回心したのち、あれほど熱心に宣教に殉じたのは、彼が旧約聖書に無知だったからではなく、むしろ聖書に精通した学者であり、信仰者だったからです。
 彼はイエスさまと直接お会いしたことはなく、イエス様の弟子だった人たちの熱心を迫害したほどの「正統な」ユダヤ教徒でした。今日の言葉で言えば、最右翼、タカ派でした。
 それゆえ、彼は、救い主の預言が散りばめられた聖書を読みながら、もどかしい思いでいたはずなのです。それゆえ、神なるイエスの直接の声を聞いて、百八十度回心したのです。
 救い主がお出でになったことを広く宣教しないではいられなかったのです。

 ご降誕から二千年後の私たちが、とくに日本に住む私たちが同じ思いに駆られるのは、当然です。

 
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 平和の君イエス・キリストは、しかし、曖昧に罪を赦して、罪びとを受け入れるだけの神さまではありません。赦しと贖いは、特売場の整理券のように一方的にばらまかれているのでもないと、さとうは思います。
 たしかに、私たち新約の民は、「イエス様を信じる信仰だけで救われる」のです。救いは無代価です。けれども、神の国に入って神の国の一員になる私たちは、神の御心に従順になっていくものなのではないでしょうか。よく「神の喜ばれることをするように」と言われます。「神の国とその義を第一に求めなさい」「生きるも主のため、死ぬも主のため、すべて神の栄光を現わすために」と書かれてあるとおりです。

 もし、私たちがキリストを信じていると思いながら、生活態度が変わらないなら――その可能性は大いにあるのです――どうなるのでしょう。
 
  見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。
  その戦車はつむじ風のようだ。 
  その怒りを激しく燃やし、
  火の炎をもって責めたてる。(イザヤ書66章15節)
  実に、主は火をもってさばき、
  その剣ですべての肉なる者をさばく。
  主に刺し殺される者は多い。(16節)
  おのが身を聖別し、身をきよめて、
  園に行き、その中にある一つのものに従って、
  豚の肉や、忌むべき物や、
  ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。
   ――主の御告げ――     (17節)


 主のさばきは、歴史書までのイスラエルの歴史の中でも幾度となくありました。
 けれども、イザヤ書の最後に記されるこの厳しいさばきは、黙示録と対応すると言われているのです。私は、救い主の祝福に期待すると同時に、主のさばきを思って衿を正したいと思うのです。



posted by さとうまさこ at 09:46| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月05日

Coffee Break預言書・イザヤ書210 わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。(イザヤ書66章18節〜21節)



 神である主、今いまし、昔いまし、のちに来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(ヨハネの黙示録1章8節)


 私たちクリスチャンは、主(聖書の神さま)を待ち望んでいます。主は、今ここにおられるのは「知って」います。ずーっと昔から、まだ人間が生まれる前、地球も太陽も宇宙さえ生成される前から、主がおられることを「知って」います。永遠の未来までも存在されるお方であるのを「知って」います。今、私たちとともにいらっしゃると「知って」いますが、それでも、主を待ち望んでいるのです。

 クリスマスは、2千年前のユダヤ人が待望していた、救い主が人となって世に来られたのを記念する日です。私たちがそのすでに実現した聖書の預言の実現を、記念行事を行うことで、喜びを新たにし、期待と信仰を新たにしているのでしょう。
 キリスト・イエスが地上にお出でになったというだけで、十分な気もします。なぜなら、イエス様は、大祭司であられ、犠牲の羊にもなって下さり、なによりも、罪を赦す権能をお持ちの神ご自身です。神の子は、父なる神と同じ権能をお持ちなのです。

 私たちはこの方のお名前を唱えてこの方の後に従い、どのようなことも願い、祈りに答えて下さる神の愛を体験しています。そればかりか、永遠のいのちを保証されているのです。
 それでも、クリスマスは神の国(神の支配される国)の到来だとは、だれも言いきれないと思います。せっかく来て下さったキリストは三十三年余りの地上での伝道を終えて天に帰って行かれました。地上には、まだ真の神を知らない者、信じない者が大勢残されていて、キリストを信じているはずのクリスチャンも、けっして神の御心どおりに整えられているのではありません。

 幸い聖書には、イエスがまた戻って来られるというお約束があります。

 わたしが行って、あなたがたの場所を備えたら、また来て,あなたがたをわたしのもとへ迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをおらせるためです。(ヨハネの福音書14章3節)


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 驚くのは、イザヤ書が救い主の到来を預言しているだけではないことではないでしょうか。
 処女が身ごもって生まれるキリスト。はずかしめられ卑しめられ、人の笑いものになって死んでいかれる救い主が預言されています。
 しかし、主は、ふたたび来ると断言しておられるのです。
 
「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。(イザヤ書66章18節)
わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、ルデ、メシェク、ロシュ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。(19節)


 主は、思い上がった人々――すべての国々や種族をも集めに来られると仰せです。ここにある地名は、じっさいの場所というより、むしろユダヤ人の知らない遠い国々、なじみのない国々の異邦人のことでしょう。一方、異邦人は救い主はおろか、創造主なる神を知らないのです。そのような人間たちにも、主の御業を見せ、主の栄光を告げ知らせられるのです。
 とは言え、つぎの預言は、怖いですね。たんなるたとえとしては読めません。明日、吟味したいと思います。

 彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る。」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。(20節)
 わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする。」と主は仰せられる。(21節)




posted by さとうまさこ at 10:14| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月06日

Coffee Break預言書・イザヤ書211 わたしの造る新しい天と新しい地が(イザヤ書66章22節〜24節)



 聖書には、すでに、救い主キリストがお出でになったことが記されています。キリストが私たちの罪を贖ってくださったので、私たちは、キリストのあとについて、父なる神とお会いすることができるようになりました。礼拝し、語りかけ、祈りごとを聞いていただき、いやしやしるしを現わせていただく可能性さえあるのです。

 それだけでもう十分「ありがたい!」と、私などは思うのですが、「神の人類救済のご計画」はまだ終わっていなかったのですね。
 イザヤは、65章17節で、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」と神のことばを預言しました。イザヤ書66章の22節でも預言を繰り返すのです。

  「わたしの造る新しい天と新しい地が、
  わたしの前にいつまでも続くように、
  ――主の御告げ――
  あなたがたの子孫と、あなたがたの名も
  いつまでも続く。  (イザヤ書66章22節)
  毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、
  すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と
  主は仰せられる。(23節)


 私はイエス様によって父なる神様との隔てがなくなった状態を、とても図式化して考えてしまうのです。イエス様に従って行けば、エデンの東に置かれた「ケルビムの輪を描いて回る炎の剣」もひょいと脇に動かされて、私たちは楽園に戻ることができる・・・かも。それさえできれば、いのちの木への道は開かれ、私たちはいつでもいのちの木から取って食べ、永遠に生きることができる――。

 このような想像は、あながち間違っていないのではないでしょうか。事実、私たちはイエス様を信じた時、父なる神の子としてさまざまな特権をいただいているのです。、そのもっとも大きなものは「永遠のいのち」でしょう。
 「出て行って、世界中に福音を宣べ伝えなさい」というイエス様の命令は、永遠のいのちが、すべての人に与えられるためであるのは明確です。

 「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書3章16節)と、イエスご自身が語っておられるのです。
 全世界の人間が、どのような人もすべて神がお造りになったアダムの子孫であるのですから、アダムを受け継ぐ者なのですから、すべての者が御許に帰ることが、真の「救いの完成」であるのは、とても納得できることです。

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 人が罪に堕ちたために歪んでしまったこの世界をも、造りかえられる必要があるでしょう。
 理論上ではわかっていても、しかし、「終末」「新天新地」の出来事に私にはある恐れを抱いているのも否定できません。
 再臨が、今日の午後か、来年か、はたまた、今現在地球上に生存しているすべての人が死んだ後かはわかりません。けれども、終末の出来事は、今ある世界に対し、ノアの洪水以上に徹底的なリセットになるでしょう。世界が造りかえられるだけではありません。
 すでに死んで黄泉(よみ)いる者は、すべて、呼び出されて神の前に立つのです。生きていたときの行いを検証され、裁かれるのです。
 この最期の審判のことを思うと、やはり恐ろしいですね。

 つぎの預言は、最後の審判のあとの情景でしょうか。審判に合格し、永遠のいのちを実質的にいただいた者たちがこのような光景を見るのです。

  「彼らは出て行って、
  わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。
  そのうじは死なず、その火も消えず、
  それはすべての人に、忌みきらわれる。」(24節)


 私は生きているうちにイエス様を信じたし、足りないところはたくさんあってもまずまず真面目なクリスチャンであったはずだからと、楽天的になってもいいのですが、どうも落ち着きません。

 長いイザヤ書の最後のことばが、このような厳しい宣告である意味をいま、まさに、じんわりと考えさせられています。



posted by さとうまさこ at 10:24| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする