2014年09月04日

Coffee Break預言書・イザヤ書209 見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。(イザヤ書66章15節〜17節)



 この時期、クリスマスを待つクリスチャンである私は、つい、救い主「来臨」の祝福に心が奪われます。救い主が来て下さることは、神と私たちの間を隔てていた咎を超えて神と相対できることなのです。旧約時代には、神の民イスラエルでさえ、神を思いながら神と直接語り合うことはできなかったのです。それは次のような理由からです。

   見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
   あなたがたの咎が、
   あなたがたとあなたがたの神との仕切となり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、
   聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ書59章1節2節)


 私たちの咎を引き受けて下さる方がこの地上にお出でになって、私たちは天地と私たちをお作りになった父なる神のふところに飛び込んでいけること、これを歓ばずにはいられません。
 教会が、その力のかぎりを尽くして、主がお出でになったことを世の中に告げ知らせたいのは当然です。そのために信徒たちが熱意や時間をささげるのも自然です。

 パウロが回心したのち、あれほど熱心に宣教に殉じたのは、彼が旧約聖書に無知だったからではなく、むしろ聖書に精通した学者であり、信仰者だったからです。
 彼はイエスさまと直接お会いしたことはなく、イエス様の弟子だった人たちの熱心を迫害したほどの「正統な」ユダヤ教徒でした。今日の言葉で言えば、最右翼、タカ派でした。
 それゆえ、彼は、救い主の預言が散りばめられた聖書を読みながら、もどかしい思いでいたはずなのです。それゆえ、神なるイエスの直接の声を聞いて、百八十度回心したのです。
 救い主がお出でになったことを広く宣教しないではいられなかったのです。

 ご降誕から二千年後の私たちが、とくに日本に住む私たちが同じ思いに駆られるのは、当然です。

 
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 平和の君イエス・キリストは、しかし、曖昧に罪を赦して、罪びとを受け入れるだけの神さまではありません。赦しと贖いは、特売場の整理券のように一方的にばらまかれているのでもないと、さとうは思います。
 たしかに、私たち新約の民は、「イエス様を信じる信仰だけで救われる」のです。救いは無代価です。けれども、神の国に入って神の国の一員になる私たちは、神の御心に従順になっていくものなのではないでしょうか。よく「神の喜ばれることをするように」と言われます。「神の国とその義を第一に求めなさい」「生きるも主のため、死ぬも主のため、すべて神の栄光を現わすために」と書かれてあるとおりです。

 もし、私たちがキリストを信じていると思いながら、生活態度が変わらないなら――その可能性は大いにあるのです――どうなるのでしょう。
 
  見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。
  その戦車はつむじ風のようだ。 
  その怒りを激しく燃やし、
  火の炎をもって責めたてる。(イザヤ書66章15節)
  実に、主は火をもってさばき、
  その剣ですべての肉なる者をさばく。
  主に刺し殺される者は多い。(16節)
  おのが身を聖別し、身をきよめて、
  園に行き、その中にある一つのものに従って、
  豚の肉や、忌むべき物や、
  ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。
   ――主の御告げ――     (17節)


 主のさばきは、歴史書までのイスラエルの歴史の中でも幾度となくありました。
 けれども、イザヤ書の最後に記されるこの厳しいさばきは、黙示録と対応すると言われているのです。私は、救い主の祝福に期待すると同時に、主のさばきを思って衿を正したいと思うのです。



posted by さとうまさこ at 09:46| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする