2014年09月06日

Coffee Break預言書・イザヤ書211 わたしの造る新しい天と新しい地が(イザヤ書66章22節〜24節)



 聖書には、すでに、救い主キリストがお出でになったことが記されています。キリストが私たちの罪を贖ってくださったので、私たちは、キリストのあとについて、父なる神とお会いすることができるようになりました。礼拝し、語りかけ、祈りごとを聞いていただき、いやしやしるしを現わせていただく可能性さえあるのです。

 それだけでもう十分「ありがたい!」と、私などは思うのですが、「神の人類救済のご計画」はまだ終わっていなかったのですね。
 イザヤは、65章17節で、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」と神のことばを預言しました。イザヤ書66章の22節でも預言を繰り返すのです。

  「わたしの造る新しい天と新しい地が、
  わたしの前にいつまでも続くように、
  ――主の御告げ――
  あなたがたの子孫と、あなたがたの名も
  いつまでも続く。  (イザヤ書66章22節)
  毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、
  すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と
  主は仰せられる。(23節)


 私はイエス様によって父なる神様との隔てがなくなった状態を、とても図式化して考えてしまうのです。イエス様に従って行けば、エデンの東に置かれた「ケルビムの輪を描いて回る炎の剣」もひょいと脇に動かされて、私たちは楽園に戻ることができる・・・かも。それさえできれば、いのちの木への道は開かれ、私たちはいつでもいのちの木から取って食べ、永遠に生きることができる――。

 このような想像は、あながち間違っていないのではないでしょうか。事実、私たちはイエス様を信じた時、父なる神の子としてさまざまな特権をいただいているのです。、そのもっとも大きなものは「永遠のいのち」でしょう。
 「出て行って、世界中に福音を宣べ伝えなさい」というイエス様の命令は、永遠のいのちが、すべての人に与えられるためであるのは明確です。

 「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書3章16節)と、イエスご自身が語っておられるのです。
 全世界の人間が、どのような人もすべて神がお造りになったアダムの子孫であるのですから、アダムを受け継ぐ者なのですから、すべての者が御許に帰ることが、真の「救いの完成」であるのは、とても納得できることです。

★★★★★

 人が罪に堕ちたために歪んでしまったこの世界をも、造りかえられる必要があるでしょう。
 理論上ではわかっていても、しかし、「終末」「新天新地」の出来事に私にはある恐れを抱いているのも否定できません。
 再臨が、今日の午後か、来年か、はたまた、今現在地球上に生存しているすべての人が死んだ後かはわかりません。けれども、終末の出来事は、今ある世界に対し、ノアの洪水以上に徹底的なリセットになるでしょう。世界が造りかえられるだけではありません。
 すでに死んで黄泉(よみ)いる者は、すべて、呼び出されて神の前に立つのです。生きていたときの行いを検証され、裁かれるのです。
 この最期の審判のことを思うと、やはり恐ろしいですね。

 つぎの預言は、最後の審判のあとの情景でしょうか。審判に合格し、永遠のいのちを実質的にいただいた者たちがこのような光景を見るのです。

  「彼らは出て行って、
  わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。
  そのうじは死なず、その火も消えず、
  それはすべての人に、忌みきらわれる。」(24節)


 私は生きているうちにイエス様を信じたし、足りないところはたくさんあってもまずまず真面目なクリスチャンであったはずだからと、楽天的になってもいいのですが、どうも落ち着きません。

 長いイザヤ書の最後のことばが、このような厳しい宣告である意味をいま、まさに、じんわりと考えさせられています。



posted by さとうまさこ at 10:24| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする