2014年09月08日

Coffee Break預言書・イザヤ書212 大いなる感謝!――イザヤ書を終えるにあたって

 

 イザヤ書を読むのは、私にとって大変な挑戦でした。
聖書を通読しながら、神様から受け取ったことを書いてきたのは、ややもすれば茫漠と流れる「無意識」で聖書を読まないことであり、いわゆる明文化することで「無意識」を「意識」することでした。

Coffee Breakを始めた当時、私の教会では聖書通読が勧められており、聖書通読表なるものを配っていました。その厳しいスケジュール通り、翌年には通読を完了する姉妹が一人、二人とおられました。その方たちは数年続けて通読を完了していましたから、何度も通読完了をしておられたことになります。じつに、頭の下がることだと思います。非常に大ざっぱに、ただ、一種の律法的義務感から何年かをかけて通読が終わったばかりの私は、心から敬服したのです。

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 何度か言い訳させていただきましたが、Coffee Breakを書き始めたのは、聖書の言葉で私自身が憩うためでした。私は小さな弱い一信徒であり、実際の生活上も精神的にも、大きな問題を抱えていました。私には、聖書をその言語的、歴史的背景から学び直して、いわば客観的にその正しさを納得するような学問的素養はなく、時間的余裕も心理的余裕もありませんでした。私の熱望は、私を奇蹟的な方法で救って下さった神さまのことばである聖書を、自分なりに漏らさず読んでみたいということでした。

 読んだことを書く、感じたことを書くためには、大変恵まれた時代になりました。原稿用紙を買う必要はありません。ボールペンも万年筆も要りません。ブログを提供して下さる会社がたくさんあって、無料で毎日紙面を提供して下さるのです。紙数も一応制限がありません。書いても書かなくても毎日紙面を提供して下さるのです。これは驚異と言うしかありません。このいわば電子出版、情報発信受信交信システムを専門用語で何と言うのか私にはわかりませんが、この恩恵が世界中の人たちに行き渡った時代まで生きていて、ブログに聖書エッセイを投稿することができているのを、ただ感謝するばかりです。なぜなら、投稿することは、ノートに書いて引きだしに仕舞っている行為とは明らかに異なるからです。

 一度も改めて、書いたことはないのですが、ブログの会社――私の場合SeeSaaを使わせていただいていますが――にも、感謝を申し上げなければなりません。ありがとうございます。


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 イザヤ書を読むのは、楽しい反面、ひやひやと肝を冷やしている日々でした。
 イザヤ書が三人の著者によって書かれていると言った学説もあるとのことで、読む前から身構えていました。
 この問題に関して、私は初めから、Coffee Breakのスタンスを再確認していました。
 私は著者問題に触れないでおこう。著者問題の論議に入ることなどできないのはもちろんですが、すでに完成した聖書を先入観なしに、神のことばとしていただこうと決心していました。
 Coffee Breakの前提は、聖書の主人公は神、聖書は神のことばであることを信じることです。Coffee Breakモーセ五書D・聖書の鍵穴で書きましたように、神様が聖書の主役――創造者、すべての主権者であることを認めなくては、聖書は、最初の一行からつまずいてしまうと思うからです。

 歴史書のように、そこに描かれた人たちが魅力的な姿となって動き始める時でも、聖書の主役は神さまであると、私は自分に言い聞かせてきました。たとえば、聖書は、ダビデ王の信仰と生涯に多くの紙面を割いています――その信仰に心酔するかのような解説も散見します。しかし、どれほど、ダビデに惹かれても、それは、ダビデに対する神様のお取り扱いに惹かれるのだという事実を、忘れてはいけないのだと思ったのです。

 イザヤ書は、歴史書とは全くカテゴリーを異にする書物です。しかし、基本的なスタンスは同じだと思いました。神様の人類救済計画の中で意味があるから残っている書物であり、イザヤの活動も預言も、神様の、私たち人間に対するお取り扱いが書かれている――。
 私は、ですから、イスラエルとユダの最も困難な時代に、イザヤが用いられ、イザヤ書がもたらされたことを重さを、今は、実感しています。解説書に、そのように書いているからではなく、私自身が不器用な方法で通読し、黙想し、書いてみた結果です。
 イザヤ書の著者が一人か二人か三人かというのは、また別の観点からなら意味のあることでしょう。ですが、そうした「批評的観点」を先に問題にしてしまうことは、そもそも聖書の真の著者(神)をないがしろにすることだろうと思うのです。

 たとえば、トルストイの「戦争と平和」の後半部分は別の著者が書いたという研究が発表されたとします。裏付けや考証が添えられて、展開される論旨も説得力があったとします。そうだとしても、「戦争と平和」を読んだ人の感銘が変わるでしょうか。書物は出来上がった形で評価されるものです。

 私は、その意味で、批評的読み方には距離を置きたいと思います。古文書である聖書がもともとの文書まで辿れば、パッチワークのように様々な資料を含んでいたとして、それをまとめて編集されたのは神さまであるというのが、私のスタンスです。

 もちろん、批評的スタンスでの研究にも敬意を表するのです。私がきょう、聖書を読むために、いつでも自由に読めているというのは、それこそ、星の数ほどの先人が聖書を書き写して伝え続け、多くの研究者が献身的に研究し、さらに、日本語に翻訳して下さった方々がおられる。今も日夜良い翻訳のためにささげて下さっている方々がいる。そう思うと、深く深く頭を下げないではいられません。

 Coffee Breakでは、主に新改訳聖書を使わせていただいております。あらためてお礼を申し上げます。

 明日からは、もう一度歴史書に戻って、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記を読みたいと思います。引き続いてご訪問下さいますようお願い申し上げます。
                              さとうまさこ


   Coffee Breakモーセ五書D聖書の鍵穴

   http://vineyard1.seesaa.net/article/160796947.html?1410138584






posted by さとうまさこ at 10:56| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする