2014年09月11日

Coffee Break 歴史の書・エズラ記3 あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも(エズラ記1章1節〜7節)




 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。(エズラ記1章1節)
 「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。(2節)
 あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。(3節)
 残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」(4節)


 おふれの冒頭でクロス王が、「天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。」と、明記しているのに注目したいと思います。彼は、地のすべての領有権と支配権を、天の神、すなわちエルサレムにご自分の宮を持っておられた神から賜ったと言っているのです。

 クロス二世は、同盟していたメディヤを滅ぼして、アケネメス朝・ペルシャを建てた偉大な王でした。大国が激しく勃興し、闘争を繰り返すシナイ半島からメソポタミヤ地方で、大きな覇権を握るのは、たんに才覚と軍事力だけではどうにもならない「運命的な」出来事です。王国とは限らず、何か大きな成功を治めたほどの人は、その成果を振り返るとき、自分の努力や才覚を誇るだけではなく、神のおぼしめしを思うに違いありません。大きな権力を手にする過程では、神様が味方でなければどうにもならない分水嶺をなんども通り過ぎているはずだからです。

 注目すべきは、クロスにも自分たちの拝んでいる神があったことです。アケネメス朝ペルシャの宗教はゾロアスター教でした。そのクロスが、自分たちの神を差し置いて、イスラエルの神の比類ない大きさを認めたのです。
 クロスは征服者であり、イスラエルの民の命を手中に握っている立ち場でした。ヒゼキヤのユダを攻めたあのアッシリヤの将軍ラブ・シャケ(王セナケリブの部下)は、エルサレムを取り囲んだとき、イスラエルの神を嘲笑しましたが、クロス王は違っていたのです。。
 強大な権力を神から賜った、それも自分が奴隷のように支配しているイスラエルの民の神から賜ったと言えるところに、私は、クロスの謙虚さを見る気がします。

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 そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。(エズラ記1章5節)
 彼らの回りの人々はみな、銀の器具、金、財貨、家畜、えりすぐりの品々、そのほか進んでささげるあらゆるささげ物をもって彼らを力づけた。(6節)
 クロス王は、ネブカデネザルがエルサレムから持って来て、自分の神々の宮に置いていた主の宮の用具を運び出した。(7節)


 クロスのおふれを見た時のイスラエルの民――ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者――が、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がったのは当然です。
 彼らは、たんに解き放たれた羊として出て行ったのではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神への強い信仰を覚醒されて、勇躍と立ち上がったのではないでしょうか。何と言っても、支配者、抑圧者と思いかねないクロス王に「地の支配権」をお与えになった神が自分たちの神なのです。

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 私たち日本のクリスチャンは、この話にちょっと触発されるところがあるように思われます。
 日本のキリスト教や教会の行く末はあまり明るくないと、しばしば聞かされます。教会はどこも高齢化が進み、教会員や礼拝出席者は少なくなっていく傾向にあり、一方で、神を否定するような社会風潮は蔓延しています。学校は進化論が唯一の真理であるかのように教え、どのような問題も、「神に聞く」といったとらえ方をするメディヤはありません。
 怪しげな占い師や何の倫理的脈絡もない一種の神秘主義がもてはやされ、横行している反面、まじめなクリスチャン信仰が嘲笑されているかのような記事が散見されます。
 伝道したいと思っても嘲笑されるのを心配して、思うように伝えられません。自分の信仰を表明しなければとわかっていても、職場などでは「抑圧」を覚えるかもしれません。
 もう少し、キリスト教の背景がある社会だったら、もう少し、クリスチャンが多かったらとは、クリスチャン同士でもよく交わされる会話です。

 もっとも、私たちは今、クロス王の再来を待ち望む必要はありません。私たちはすでに、クロス王に王冠をお与えになった神がこの世界に来られたことを「知って」いるからです。救い主イエスは、地上のどのような権力者よりも権能があり、そのことばと、存在は、完成された「聖書」にすべて記されています。

 そこで、私は、「そうだった、聖書を読もう」と、改めて自分に言い聞かせているのです。





posted by さとうまさこ at 10:36| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする