2014年09月18日

Coffee Break 歴史の書・エズラ記10 ユダヤ人とその地の民の争い(エズラ記4章1節〜4節)



 ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々が、イスラエルルの神、主のために神殿を建てていると聞いて、(エズラ記4章1節)
 ゼルバベルと一族の頭のところに近づいて来て言った、「私たちもあなたがたといっしょに建てたい。私たちはあなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです。アッシリヤの王エサル・ハドンが私たちをここに連れて来たとき以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえをささげてきました。(2節)
 しかし、ゼルバベルとヨシュアとその他のイスラエルの一族のかしらたちは、彼らに言った。「私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない。ペルシャの王、クロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりだ。」(3節)
 すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。(4節)


 神殿の礎は据えられたのです。(エズラ記3章10節) それは、帰還したイスラエル人以外の耳にもとうぜん届きました。すると、ユダとベニヤミンの地にすでに住んでいた異邦人たちが、帰還の民のところにやって来て、いっしょに神殿建設に参加させてほしいと申し出たのです。彼らは、アッシリヤが北王国の民を捕囚として連れ去った後に、サマリヤを中心に、アッシリヤが入植させた民でした。
 彼らの言い分は、アッシリヤの王エサル・ハドンが私たちをここに連れて来たとき以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえをささげてきました。(2節)というものでした。
 彼らの申し出に対し、ゼルバベルとヨシュアとその他のイスラエルの一族のかしらたちは、「私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない。」と言って断ったのです。その結果、一転、彼らは、ユダの人々に敵対的な態度を取るのです。

 その地の民を敵に回したばかりに、彼らは起ってユダの民をペルシャ王に訴え、そのために、神殿建設は何年も中止になり、立ち往生してしまうのです。

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 この箇所で見る限り、アッシリヤによって入植させられた人々は、イスラエルの神にいけにえをささげて来たと、言っているのです。ここは、神殿建設に彼らを参加させ、彼らをアブラハム、イサク、ヤコブの神の民として教化する良い機会ではなかったかと、私など(読みの浅い読者は)思ってしまうのです。この潔癖さはあまりにも、心が狭いのではないかしら。
 アッシリヤ王によって、サマリヤに入植させられた人たちは、残されていたイスラエル人と混血して、サマリヤ人と呼ばれ、のちのちまでユダヤ人たちから軽蔑の目で見られることになりました。純粋イスラエル人によるサマリヤ人への差別は、この時に遠因があるのでは、と思うのです。

 福音書に出て来る、イエス様とサマリヤの女の話や、親切なサマリヤ人のたとえ話は、クリスチャンなら、だれでも知っているほど有名なエピソードです。初めて聞くときに戸惑う話でもあります。なぜなら、どちらも、サマリヤ人が取り上げられているところに、意味深さがあるからです。
 
 イエス様が世に来られた時代は、エズラがエルサレムに帰還したときから、450年ほども経っていました。その頃には、サマリヤ人とユダヤ人との断絶は、制度化され、ユダヤ人はサマリヤ人と口を利くことさえなかったのです。(新約聖書・ヨハネの福音書4章9節) その軽蔑されていたサマリヤ人の女がイエスさまから、永遠のいのちの水について教えられ、すぐに回心する様子は感動的です。(同4章7節〜15節)
 親切なサマリヤ人の話も、瀕死のけが人に対し、祭司やレビ人の冷たさとサマリヤ人の親切を対比させています。(ルカの福音書10章25節〜36節)

 信仰を固く守り続けてきた者の信仰が形骸化し、むしろまことの神から遠いと思われていたサマリヤ人が救い主に評価されるこれらの物語が、エズラ記、ネヘミヤ記の時代とつながっている意味を、このあと考えられればと思います。

 ここでの帰還の民の潔癖さを評価しながらも、さとうは、立ち止まってしまいました。






posted by さとうまさこ at 09:50| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする