2014年09月19日

Coffee Break 歴史の書・エズラ記11 妨害(エズラ記4章4節〜5節)



 すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。(エズラ記4章4節)
 さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことは、ペルシャの王クロスの時代からの王ダリヨスの治世の時まで続いた。(5節)


 サマリヤ人たちは、自分たちも神殿再建に参加させてほしいと申し出て来たのです。本音はとにかく、表向きの理由は自分たちもイスラエル人の神を拝んでいるからというものでした。しかし、解説書などには、それがアブラハム、イサク、ヤコブの神への信仰とは、違うものであることが述べられています。サマリヤ人はいわゆる多神教の信者ですから、必要に応じてイスラエルの神をも拝んだ。(新実用聖書注解・いのちのことば社)のです。

 天地を統べておられる唯一の神は、本来、多神教とは相容れないものです。七福神のようにそれぞれ持ち場が違う神さまが一つの船(宝船?)に乗っている図は、多神教では、ひとりひとりの神さまが、みんな不完全な所から来ています。この世の課題は、かぎりなくありますし、つぎからつぎへと新しい問題が起きるのですから、そのたびにそれに対応する神様を産みださなければならないのです。神様の数を増やしたところで、終わりということがありません。そこで、八百万の神さまとなります。アブラハム、イサク、ヤコブの神を他の神と対等に並べて拝んでいるのでは、信仰とは言えないのです。

 なにより大きな違いは、多神教の神(偶像)は、人間によって産みだされていきます。それに対し、聖書の神――万物の創造神、主権者であられる神――は、神が万物や私たち人間を産みだして下さったことです。サマリヤ人たちは、たしかにイスラエルの神を拝んでいたかもしれませんが、それはそこに何か人間的な付加価値を見出していたからでしょう。
 捕囚に連れ去られず、残留していたイスラエル人やユダヤ人との融和の意味があったかもしれません。互いに縁を結んだときに、相手の信仰を「尊重した」ためかもしれません。ときには、万物を創造してすべての主権を握っておられる神にすがる必要があったのかもしれません。

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 はっきりしていることがあります。
 サマリヤ人の神殿建設への参加を拒ませたのは、究極には、「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」・主ご自身だったのではないでしょうか。
 旧約のこの時代、聖書の神は、まだイスラエルの神でした。この方と契約を結んでその民とされているのは、イスラエルの民(ユダヤ人)だけでした。
 神のご計画の中では、いずれは救い主を降して、世のすべての民――異邦人――を救うことが決まっていました。
 旧約の時代でも異邦人に愛を見せておられる神です、たとえば、アッシリヤのニネベに対して、預言者ヨナを派遣して滅びから救おうとされたのです。(ヨナ書)


 神殿再建は、純粋にイスラエル人の手によるものでなければならなかったのではないでしょうか。だからこそ、異邦の国になっているエルサレムに、なんとしても神聖政治国家イスラエルの中心である神殿を建てるために、異教徒のクロス王に働かれて捕囚の民の帰還を実現させて下さったのです。
 神殿は、建物である以上に、神の聖地、いずれは、キリストを下すユダの中心となるものでした。

 南北イスラエル王国の滅亡で、一度は潰(つい)えたかに見えた主のご計画がふたたび立ち上がることこそ、重要なことだったと思われます。



posted by さとうまさこ at 10:01| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする