2014年09月23日

Coffee Break 歴史の書・エズラ記15 ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。(エズラ記6章13節〜15節)



 このようにダリヨス王が書き送ったので、川向うの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚たちとは、これをまちがいなく行った。(エズラ記6章13節)
 ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシャの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。(14節)
 こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。(15節)


 神殿の再建は、こうして成功したのです。川向うの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚たちのもくろみは、見事に「やぶえび」になって失敗しました。

 神殿建設は、最終的にはダリヨス王の命令によって再開され、完工にこぎつけたのです。ですが、この工事を命じられた真の権威者は神・主であったことに注目しなければなりません。預言を受け入れて従ったユダヤ人たちの信仰が工事を進めたのです。

 聖書を読んでいて、しばしば教えられるのは、世俗の権威より神の権威の方が先に来る、来なければならないという世界観です。これは、創造主なる神を信じるすべての者の、基本ではないでしょうか。

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 歴史を見ると、そして現在の世界でも、神の名によって横暴を行なう「世俗的権威」が存在しているため、神の権威を危険視する考え方がいかにも説得力があったりするのです。
カトリック教会は、歴史上たくさんの間違いを犯してきましたし、プロテスタント教会も無謬(むびゅう)とは到底言えません。
 今日の、この日本の弱い小さなキリスト者の集まりである教会でさえ、間違いを犯さないではすまないでしょう。人がすでに世俗を背負っているかぎり、その集まりである教会も世俗から無縁ではいられないのです。
 「教会なのに」「クリスチャンなのに」「神さまがいるならこんなことが」といった声を聞かないでしょうか。そのようなつまづきは、「世俗」と「神の国」との接点への理解不足から来ているのではないかと思われることが多いのです。

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 私たち信仰者は、ほんとうの権威・神に従う覚悟と真摯な眼力をもたなければいけないと思います。
 単純に言って、どんなに良心的で信仰的な教会でも、なんらの世俗の権威と混合して存在しています。牧師の学歴や経歴はその信仰を裏打ちしているように思われがちですし、りっぱな教会堂や美しく鍛えられた聖歌隊も信仰を鼓舞します。しかし、目に見えるそのような「りっぱさ」は、どれほど純粋であろうとしても世俗的な価値と背中合わせです。
 はっきり言えば、会堂建設にはお金が要ります。音楽の基礎訓練を受けたような人財は、彼ら自身豊かさの産物です。ピアノなど見たこともなく、西洋風の音階があることさえ知らない人たちが歌う聖歌は、私たち先進国の「洗練された」信徒から見ると、素朴すぎることが多いでしょう。そうした国では、そのような賛美があってもいいけれど、先進国日本では、やはり、教育・文化レベルに合わせた「すばらしい」賛美を披露しないと、神様に申し訳ないような気がしてきます。そうしないと、新しく教会に来た人たちを感動させることはできないし、つまり、伝道にならないと考えるのです。すると、賛美を歌いながら序列が生まれるような気がする人が出てきます。奏楽の奉仕をする人をうらやむ人がいる反面、たしかに奏楽だけで神さまへの務めを果たした気分のクリスチャンも出てきます。

 講壇から聖書のみことばを解き明かしして下さる説教者はすばらしいのです。私たちは、献身して神の声を聞いている方々を、それゆえ尊敬するのは当たり前です。けれども、神の声を、いつの間にか世俗の権威と取り違えてしまうことは、牧師側というより、信徒の中でも起こってきます。
 このような取り違えが、教会や牧師の権威を高めると言うより、結果的に教会への失望につながって、信徒が離れているのではと思える例も垣間見ます。

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 神殿再建を敵によって止められたユダヤの人たちは、預言によって工事を再開したのです。これは、世俗的に見ると大変勇気が必要なことで、冒険だったことに、注目しなければならないと思います。彼らはもともと自分たちが住んでいた自分の国に帰って来たとはいえ、そこはすでに敵の占拠地で、敵の方が強大だったからです。ある意味四面楚歌の状況で預言したハガイとゼカリヤの勇気はどうだったでしょう。彼らは世俗的な配慮ではなく、純粋に神のことばを受け、それを民に伝えたのです。それがわかるから、ユダヤ人たちは預言に従ったのです。

 世俗に配慮したら、神の声を聞くことがリスクであることは多いと思います。私たちは世俗にも足を置いて「世を生きている」のですから、なかなか神の声に従うことはできません。
エズラ記のこの神殿再建の物語は、このような私に、改めて悔い改めを求めているように思われます。






posted by さとうまさこ at 10:15| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする