2014年09月27日

Coffee Break 歴史の書・エズラ記19 エズラの帰還・道中のための断食(エズラ記8章21節〜31節)



 そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。(エズラ記8章21節)


 現代でも旅行にアクシデントはつきものです。旅行のアクシデントといえば、なんといっても、盗難ではないでしょうか。政情不安の国などを除けば、治安の悪い国といえば、犯罪の多い国のことでしょう。旅行者は、見知らぬ国で犯罪被害者になるかもしれないことを恐れるわけです。旅行者はお金をもっていますし、その国の地理にも疎く、知人も少なく格好の標的になります。とはいえ、現代の旅行は、古代とは比べ物にならないほど「安全」でしょう。私たちはお金を、カードやトラベラーズチェックのかたちで持ち歩けます。

 それに対し、多くの旅人が必要な金や財産を持ち歩いて移動していた古代などでは、盗賊もひとつの稼業として存在していたのです。国が国に戦争を仕掛ける理由も、略奪だったのですから、奪うことに対して、基本的に「犯罪だ」という意識はなかったのでしょう。
 もちろん、十戒では、盗みを禁じています。(出エジプト記20章15節)しかし、その戒めが適用されるのは、おおむね同じ部族や国の仲間の間でした。十戒の場合は、つまりシナイ契約では、神に対する盗みも問題にされていますが、一般的には、仲間、家族や利害が共通する者同士では、ある程度「倫理的」だったのでしょう。

 ギデオンの物語を思いだして下さい。ギデオンの時代、イスラエルはいつもミデヤン人に脅かされていたのです。ミデヤン人は収穫時になると、襲ってきて収穫物を略奪していくからです。(士師記6章) また、U列王記では、アラムの略奪隊がしばしばイスラエルに侵入して来たことが書かれています(U列王記6章23節)。

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 私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたからである。(エズラ記8章22節)
 だから、私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた。すると神は私たちの願いを聞き入れて下さった。(23節)
 私は祭司長たちのうちから十二人、すなわち、シェレベヤとハシャブヤ、および彼らの同僚十人を選び出し、(24節)
 王や、議官たち、つかさたち、および、そこにいたすべてのイスラエル人がささげた、私たちの神の宮への奉納物の銀、金、器類を量って彼らに渡した。(25節)


 エズラが断食して、道中の無事を祈り求めなければならなかったのは、なによりも、彼らが携行する多量の財宝のためでした。このような宝物を運ぶためには本来、武装した護衛兵がついたのでしょう。ところが、エズラは、王に護衛を求めなかったのです。それというのも、かつて、王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言ったことがあったからです。
 なにげなく読み流してしまいそうですが、ちょっと立ち止まるとなんだかユーモラスですね。私たちの体験としても――もちろん、聖書の話と比肩すべくもありませんが――「これくらいの仕事は大丈夫です。自分の力でできます」請け合ってしまうことがあります。それが本当だとしても、それだけに、そのような時は、万全を期さなければと思います。

 エズラの祈りは聞かれました。

 私たちはエルサレムに行こうと、第一の月の12日にアハワ川を出発した。私たちの主の御手が私たちの上にあって、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から、私たちを救い出してくださった。(8章31節)のです。



posted by さとうまさこ at 09:24| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする