2015年03月01日

Coffee Break 知恵文学・ヨブ記65 悪魔のワナ(ヨブ記34章4節〜15節)



 エリフは、神はお答えにならないのではなく、ちゃんと人の苦しみに答えて人をよみの穴から引き戻しておられる(ヨブ記33章29節30節)と言うのです。

  さあ、私たちは一つの定めを選び取り、
  私たちの間で
  何が良いことであるかを見分けよう。(ヨブ記34章4節)

 それに対して、ヨブは運命ともいうべき定めにおいて、根源的に神に対して正しくないというのです。それを説明しようではないか、と。


  ヨブはかつてこう言った。
  「私は正しい。
  神が私の正義を取り去った。(5節)
  私は自分の正義に反して、
  まやかしを言えようか。
  私は背きの罪を犯していないが、
  私の矢傷は直らない。」(6節)
  ヨブのような人がほかにあろうか。
  彼はあざけりを水のようにのみ、(7節)
  不法を行なう者どもとよく交わり、
  悪人たちとともに歩んだ。(8節)
  彼は言った。「神と親しんでも、
  それは人の役に立たない。」(9節)
 

 それにしても、エリフの視線は厳しいですね。かつて、エリフは「このことであなたは正しくない」(33章12節)と断言し、今また、「ヨブのような人がほかにあろうか」と指摘するのです。
 苦しみと絶望のどん底にある人にこのように言うのは、エリファズ達と変わらない非情さだと見えるのですが、これがエリフの若さでしょうか。それとも聖書の世界の修辞の特色でしょうか。日本語は、何でも控えめ、婉曲に表現します。正しいことでも、そのものずばりに言い表すのは嫌われます。エリフの言葉はかなりきつく感じられるのはそのためでしょうか。

★★★★★

 しかし、エリフの言葉が鋭いのは、彼の修辞のためではなさそうです。彼は、ヨブの「神観」に噛みついているのです。

 だから、あなたがた分別のある人々よ。
 私に聞け。
 神が悪を行うなど、
 全能者が不正をするなど、
 絶対にそういうことはない。(10節)
 

 ヨブが、「神が聴いてくだされば自分に罪がないことはわかる」と言うのです。裏返せば、神が罪のない者を罰っしておられると解釈される可能性があるわけです。それは、神は不完全だと決めつけられ得る論理なのです。
 そのような論理にとらわれているヨブを、エリフは非難しているのです。

 神は決して悪を行なわない。
 全能者は公義を曲げない。(12節)
 だれが、この地を神にゆだねたのか。
 だれが、全世界を神に任せたのか。(13節)
 もし、神がご自分だけに心を留め、
 その霊と息をご自分に集められたら、(14節)
 すべての肉なるものは共に息絶え、
 人はちりに帰る。(15節)

 たしかに、これが聖書の神の姿です。万物の創造者にして、万物の存在と生存を保証して下さっている神です。すべての主権をお持ちの神は、一瞬も私たち被造物のことを忘れてはおられないはずです。もし、神がご自分のことしか心に留められなくなったら、たしかに、すべての肉なる者は息絶えるでしょう。創造の始めにちりから取られて形づくられた人は、ちりに帰ることでしょう。つまり、個々の人にとって、状況がどのように見えようと神はすべてに働いて下さっているのです。

 それにしても、エリフの厳しさは、ヨブを不信仰者のように見せてしまいます。
 ヨブの反論が出てこないのはなぜでしょう。
 ヨブはエリフの言葉をどう受け取っていたのでしょう。

 ヨブは信仰の優等生です。自他ともに認める「義人」でした。最悪の不幸の中でも、愚痴をこぼさず、荒布を着て灰の中に座っている人でした。
 ですから、エリフの意味する神は、ヨブも「知っていた」はずです。それなのに、ヨブの神への思いは崩れていたのです。
 三人の友人たちがヨブに、「あなたには隠れた罪があるはずだ」と繰り返したことがきっかけでした。

 気をつけなければいけないなあと、思わせられないでしょうか。悪魔は「友情の衣」となっても、働くらしいです。これこそ、悪魔のワナだったのではないでしょうか。






posted by さとうまさこ at 08:07| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月02日

Coffee Break 知恵文学・ヨブ記66 神の権威と正しさ(ヨブ記34章16節〜23節)




  あなたに悟りがあるなら、これを聞け。
  私の話す声に耳を傾けよ。(ヨブ記34章16節)
  いったい、公儀を憎む者が
  治めることができようか。
  正しく力ある方を、
  あなたは罪に定めることができようか。(17節)

 エリフは、ヨブのことを「正しく力ある方を罪に定め」ているとまで、断定しています。
 そうして、神の権威と正しさを、18節から具体的な例で示しています。

 
  人が王に向かって、「よこしまな者」と言い、
  高貴な人に向かって、「悪者」と言えるだろうか(18節)
  ――――
  なぜなら、彼らはみな、
  神の御手のわざだから。(19節)


 聖書では、王の地位は神から与えられている、すべての権威は神がお与えになってと考えます。ですから、聖書信仰に立つ者は、原則的には「上の権威」に従うよう勧められます。
 これが、今日、キリスト教が受け入れられにくい命令の一つであるのは事実かもしれません。今日では、首相や大統領の地位は、たいてい選挙で勝ち取るものです。クーデターや革命で権力を奪取する人もいますが、それを、神が下さったとは、その地位にある本人も考えないわけです。地位まつわる権威や権力は、人の力で「勝ち取った」と、首相も国民も思うわけです。

 同時に、強い者たちも人の手によらないで取り去られる。(20節)というのも、今風ではありません。死ぬのは病気にしろ、事故にしろ、物理的生物学的宿命だと考えるからです。死が訪れるのは避けようがないにしても、不慮の死を招かないように可能な限り人の手で死を遅らせようとするわけです。

★★★★★

 とくに、今日的でないのはつぎのことばですね。

  神の御目が人の道の上にあり、
  その歩みをすべて見ているからだ。(21節)

 「だれにもわからないと思っても、神様が見ておられるのだから」と言うと、多くの人は嘲笑するかもしれない時代です。神様が人の歩みをすべて見ていると思えば、出来ないような犯罪、起らないような事件があとを絶ちません。

 まして、

  不法を行なう者どもが身を隠せるような、
  闇もなく、暗黒もない。(22節)
  人がさばきのときに神のみもとに出るのに、
  神はひとについて、
  そのほか何も定めておられないからだ。(23節)

 「人がさばきの時に神の前に出る!」という自覚を持っている人は、どれほどいるでしょう。これもまた、この覚悟があるなら、人が悪を行なう者であるとしても、それはかなりセーブされるはずでしょう。

 新約聖書では、さばきについて明言されています。

 人間には、一度死ぬことと死語にさばきを受けることが定まっている。(新約聖書・へブル書9章27節)






 

posted by さとうまさこ at 10:06| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月03日

Coffee Break 知恵文学・ヨブ記67 彼は不法者のように言い返しをするから。(ヨブ記34章24節〜35章6節)



  神は力ある者を取り調べることなく打ち滅ぼし、
  これに代えて他の者を立てられる。(ヨブ記34章24節)
  神は彼らのしたことを知っておられるので、、
  夜、彼らをくつがえされる。
  こうして彼らは砕かれる。(25節)
  神は人々の見ているところで、
  彼らを、悪者として打たれる。(26節)
  それは、彼らが神にそむいて従わず、
  神のすべての道にこころを留めなかったからである。(27節)
 
  神が黙っておられるとき、
  だれが神をとがめよう。
  神が御顔を隠されるとき、
  だれが神を認めえよう。(29節)

 ラム族のブズ人、パラクエルの子エリフの演説は、32章から始まって37章まで続くのです。この6章に亘る間、エリフの一人舞台なのです。ヨブの返答も挟まれませんし、他の三人も沈黙したままです。

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  あなたが反対するからといって、
  神はあなたの願うとおりに報復なさるだろうか。
  私ではなく、あなたが選ぶがよい。
  あなたの知っていることを言うがよい。(33節)
  分別のある人々や、私に聞く、知恵のある人は私に言う。
  「ヨブは知識がなくて語る。
  彼のことばには思慮がない」と。(35節)
  どうかヨブが最後まで試されるように。
  彼は不法者のように
  言い返しをするから。(36節)
  彼は、自分の罪に背きの罪を加え、
  私たちの間で手を打ちならし、
  神に対してことば数を多くする。(37節)

 神に対して言い返しをするのは、最大の罪です。「つぶやく」こと、「言い訳をする」こと、「愚痴をこぼすこと」などは、聖書の最初から罪として戒められています。不従順がその根底にあるからです。不従順があるところにサタンが働くからです。サタンの最大の目的と喜びが、私たちと神との間を裂くことだからです。
 また、「手を打ちならす」も、聖書に何度も出てきます。手を打ってはやす場面から来ているでしょうが、ここでは、神をあざ笑う表現として使われています。
 エリフは、ヨブが言い分を述べ立てるのを、よほど腹に据えかねているようです。

  エリフはさらに続けて言った。(35章1節)
  あなたはこのことを正義によるとでも思うのか。
  「私の義は神からだ」とでも言うのか。(2節)

 エリフの演説の内容は、一貫して神の超絶した力と権威を述べることです。ヨブやほかの三人の返事を期待しているような内容ではありません。仮に、ヨブのことばを取り上げる場合でも,ヨブに申し開きをさせるのではなく、エリフ自身が答えています。

  私はあなたと、
  またあなたとともにいるあなたの友人たちに
  答えて言おう。(4節)
  天を仰ぎ見よ。
  あなたより、はるかに高い雲を見よ。(5節)
  あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。
  あなたのそむきの罪が多くても、
  あなたは神に何が何をなしえようか。(6節)

 エリフのことばは、最年少の者が年上の人間に述べるにしては、いささか高調子であるような気がします。彼が、神の側に立って神の代言をしているのは明らかです。これが、エリフの役割りに対して、いくつかの解釈を生みだしている理由でしょう。






posted by さとうまさこ at 10:42| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月04日

Coffee Break 知恵文学・ヨブ記68 あなたが正しくても、あなたは神に何を与ええようか。(ヨブ記35章6節〜11節)



  あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。
  あなたのそむきの罪が多くても、
  あなたは神に何をなしえようか。(6節)

 エリフは、ヨブと三人の友人たちに、超絶した神の偉大さを悟らせようとします。この言葉は、ヨブの苦しみは、ヨブの(隠れた)罪から来ているというエリファズなどに向けられていると見えます。背きの罪が、神を怒らせ、その結果災いがやってきたなどという因果応報の考え方に「ノー」を示しているのです。同時に、相手のそのような論理に引き込まれて、「罪を犯していない。神様にお会いできさえすれば無実を弁明できるのに」と愚痴をこぼし、神を(ある意味)非難しているヨブの顔に冷水をぶっかけています。
 神さまは、そんなに小さい方だろうかというわけです。 私たちが神さまに罪を犯してもいささかも神さまのご性質が変わるわけではない。たしかに、大海に一滴の絵の具が混じったとしても、海はいささかも汚染されることはないでしょう。しかも、海は、たとえ太平洋であっても、神の被造物です。その海でさえ、それほどの力があるのです。
 また、言います。

  あなたが正しくても、
  あなたは神に何を与ええようか。
  神はあなたの手から何を受けられるだろうか。(7節)
  あなたの悪は、ただ、あなたのような人間に、
  あなたの正しさは、ただ、人の子に、
  かかわりを持つだけだ。(8節)

 反対に、私たちがいかに正しいとしても、それで神様になにかを「与える」ことなどできないのです。
 たしかにそのとおりです。私たちは、神様から多くを受けて、神様によって支えられ養っていただいていますが、私たちが神さまを支えたり養ったりすることはあり得ないのです。

 神の前に正しいこと(義であること)は大切ですが、それは、神になにかを差し上げることができるからではなく、自分の「徳である」だけなのは事実ですね。
 ところが、私たちは思いがちなのです。正しくあろう。そうすれば神さまが喜んでくださる。神様が喜んでくだされば、きっとご褒美を下さる・・。

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  人々は多くのしいたげのために泣き叫び、
  力ある者の腕のために叫び求める。(9節)
  しかし、だれも問わない。
  「私の造り主である神はどこにおられるのか。
  夜にはほめ歌を与え、(10節)
  地の獣よりも、むしろ、私たちに教え、
  空の鳥よりも、むしろ、私たちに知恵を
  授けてくださる方は」と。(11節)

 私たちは、正しいと思える行いをしているだけでは、不十分なのではないか。
 エリフは、そのように問いかけているようです。自分は正しい行いをしていると信じる人間は、思いがけない苦難や圧迫がやってくると「不当だ」と泣き叫ぶのです。
 神が正しい自分に報いてくださらないのは「おかしい」と、愚痴をこぼすのです。

 しかし、エリフは言います。神は「小さな裁き主」である以前に、私たちの造り主であるということを自覚すべきではないか。造り主なる神が私たちと共にいて下さらないはずはないのだから。地の獣や空の鳥とは比べようもないような知恵を与えて下さり、私たちを特別な者に造って下さったかたのことを考えてみなさい。

 もし、私たちが造り主のことを考えれば、たしかに、因果応報、善因善果などという考え方は、どこかおかしいと気が付く。エリフはそのように言っているのでしょう。







posted by さとうまさこ at 11:01| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月05日

Coffee Break 知恵文学・ヨブ記69 義とはなにか。神をリングに呼びだす空想(ヨブ記35章13〜16節)



  神は決してむなしい叫びを聞き入れず、
  全能者はこれに心を留めない。(ヨブ記35章13節)

 エリフがヨブに怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分を義としたからである。と、32章1節にありました。
 ですが、この意味はもちろん、今日私たちが考えるような「傲慢」を意味してはいないでしょう。

 現代の無神論的風潮のもとでは、神は、しばしば同じ土俵でぶつかる力士の一人、同じリングで戦うボクサーであるかのような役割を与えられるのです。横綱だったりチャンピオンだったりして、少しは挑戦者より上の実力や階級の持ち主ですが、挑戦者とは対等で、基本的に挑戦者によって「打ち負かされるべき」存在です。

 私たちはしょっちゅう聞かされます。地震のような災害があるたびに、幼い子供が理由もなく病気になって苦しむ姿をみるとき、悪魔のような殺人鬼が何十人も殺して悠々と生きのびていたのを知ると、「神がいるならどうしてこのようなことが起きるのか。神はいったいどこにいるのか」
 そして、自分が造ったリングの上に神を呼び出して、思い切り、ジャブを加え、ノックアウトするまで打ち続けるのです。
 もちろん、実際に神を呼び出すことなどできないのですから、これも挑戦者の頭の中での空想です。ですが、この空想が人間同士の間ではけっこう交換され、お互いに手渡し合って数を増やしていくのです。

 ヨブは、けっして神様をリングに上げて、打ってはいません。ヨブは、とにかく「信仰の優等生」なのです。潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。(ヨブ記1章1節)人なのです。神ご自身ががサタンに、「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが」(同8節)と明言されるような人なのです。子供たちが宴会で楽しんだことさえ、「罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」(同5節)と全焼のいけにえをささげる人だったのです。

 そのヨブのことを、エリフは、神よりもむしろ自分を義としたと思ったのです。同じリングの上に神を呼び出したと感じたのです。

 ヨブが、エリファズたちの攻撃にさらされた時、「自分は潔白だ」と言い始め、神様の前に出ることができさえすれば「申し開きができるのに」と言ったのが、その理由です。彼の言い分が正しければ、災難を及ぼした神が間違っていることになります。たしかに、このような論理の中では、意図せずとも神をリングの上に呼び出しているのです。

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  しかも、あなたは
  神を見ることができないと言っている。
  訴えは神の前にある。
  あなたは神を待て。(14節)
  しかし今、神は怒って罰しないだろうか。
  ひどい罪を知らないだろうか。(15節)
  ヨブはいたずらに口を大きく開き、
  知識もなく、自分の言い分を述べたてる。(16節)

 「ヨブは知識がない」と、エリフは非難しています。知識がないとはどういうことでしょう。それは、「義」という本来神の側の「裁定」を自分に与えていることでしょう。

 さとうは、「義」は神の前に正しいことだと考えますが、「あなたは正しい」と認定して下さるのも、じつは、神なのです。自分でいかに正しいと思っても、神のご覧になるとところは違うかもしれません。「絶対の義」をお持ちなのは神だけで、ある人の「義」を認定される権威も力も、神だけがお持ちなのです。
 「自分は正しいのに(義であるのに)」と、私たちが思う瞬間、私たちは、「義」を失うのです。

 私たちは決して神とは対等になりえない、とエリフは、怒りを燃やしているのでしょう。








posted by さとうまさこ at 10:37| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする