2015年04月01日

Coffee Break 知恵文学・ヨブ記96 ヨブ記の語るもの6・正しさの限界(出エジプト記22章20節〜27節、23章6節〜12節、レビ記19章9節10節、14節15節、申命記24章17節〜22節、(ヨブ記1章10節11節、同1章21節、2章8節〜10節)



 ヨブは、人にも――神様に対すると同様に――「良い子」であるように努めていた人です。慈善家でもあったのでしょう。ヨブの門前に行けば、食事や上着にありつけると聞いて頼ったやもめや孤児が大ぜいいたかもしれません。なにしろ、政府の運営理念の中に「福祉思想」などなかった時代のことです。「拠るべのない境遇の者」は、裕福な者の慈悲にすがるしかありません。だからこそ、神は、シナイ契約の時に、十戒とそれに続く戒めで、「弱者に対して人が果たさなければならない義務を定めておられるのです。(出エジプト記22章20節〜27節、23章6節〜12節、レビ記19章9節10節、14節15節、申命記24章17節〜22節)

 人や社会のために自分の富や時間を差し出す、これは今日にまで通じる大切な「人間の良心的行為」です。人間の「自己防衛本能」は蓄財に傾くからです。いざとなれば、「お金が頼り」と思っている人は多いのです。何の対価も求めずお金を出すのは、血を絞り出すほどのことだったりするのです。

 じっさいにはクリスチャンであってもなくても、寄付や献金をしている人は多いでしょう。「アフリカの子どものビタミン剤のために、一日100円を」などと呼びかけられると心が動きます。社会的弱者のために、病人やかわいそうな子どものために、ボランティア活動をしている人も多いのです。無償の奉仕で町の清掃をしているグループもあります。
 心の健康や倫理的価値の向上のために活動している人もいます。こうした活動は、もちろん、いくばくか社会的貢献をしているのでしょう。
 それ以上に、それを行なっている人にとって「気持ちの良い」体験かもしれません。なにしろ、人間は「良い子でいたい」本能があるのです。

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 ヨブ記が私にとって難解なのは、良い子であるゆえにヨブはサタンに目をつけられ、サタンがヨブに試練を与えるように神に進言する過程です。また、それを、神が許可されることです。
 「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」などと言われたら、だれであれ、良心的行動の背後にある功利的動機に思い当らない人はいません。親にほめられたい、先生にほめられたい。誰かの喜ぶ顔が見たい。神様のお喜びになる(と思える)ことをしたい。それだって、突き詰めれば、功利的側面を含んでいます。
 サタンは、言うのです。

 「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっています。
しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」(ヨブ記1章10節11節)

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 ヨブがもし、神をのろわなかったらどうなったのか、と考えてみます。事実、ヨブは最初、神をのろわなかったのです。持ち物をすべて失い、息子と娘全員を失い、健康を失っても、ヨブは、罪を犯すようなことは口にしなかったのです。 (同1章21節、2章8節〜10節)
ですが、サタンは面目を失って、神の前に謝罪したでしょうか。

 このあと、サタンは、もう登場して来ません。神様とサタンがその後どのようなやり取りをしたのか、記録がありません。
 話は、ヨブを見舞いに来たエリファズたちによって、新しい展開を見せるのです。サタンが行う試みにも崩れなかったヨブが、友人たちのことばによって、やすやすと信仰の牙城を崩されるのです。
 「正しい人」ヨブを非難したのは、神ではなく、人間の友人でした。それも、ヨブより「正しい」友人ではなく、間違った神観をもった人たちでした。エリファズたちは、ヨブの悲惨さを見て、ヨブには、隠している罪があるに違いないと追及するのです。この見当はずれの指摘から、ヨブは崩れ始めるのです。

 これは何を意味しているのでしょう。








posted by さとうまさこ at 10:21| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月02日

Coffee Break 知恵文学・ヨブ記97 ヨブ記の語るもの5・正しさと義(ただ)しさの乖離(かいり)



 教会に集い始めた時、私は先輩のクリスチャンたちから、ふたつの異なった忠告をいただきました。
 Aさんは言いました。「いいですか。神様を見上げるのですよ。人を見ているとつまずきます」一方、Bさんが言いました。「牧師の言うことには、絶対に逆らってはいけないのよ」
 どちらもとてもまじめな感じのよい、長いクリスチャン生活を送ってきた女性でした。

 言葉の意味としてはBさんの方がわかりやすいのです。「いいですか。あの人にだけは逆らってはいけないですよ」というパターンは案外過去に経験しています。まあ、「絶対に」なんて言われると抵抗はあります。経験しているだけに、抵抗があるのでしょう。
 ???だったのは、Aさんの言葉です。まだ、「神様を見上げる」経験が浅かったのでしょう。「人を見る」というのもよくわかりません。

 教会生活が続くうちにだんだんわかってきました。私たちは(私は)、祈りながらも「人の気配」を見ているのです。神様の御声を聞くために耳を澄ませると、人の声が先に入ってくる有様です。人が喜ぶとき喜び、人が泣くときいっしょに泣く(ローマ人への手紙12章15節)。これはたしかに聖書でも勧められている態度ですが、人の喜ぶ顔や泣く顔ばかりが気になると本質を見失いますね。でなくても、人は、本能的に相手の顔色を読んでいるのです。人の態度に反応して生きぬいていると言っても過言ではありません。「人の心を読む方法」などという生き方指南の本が後からあとから出てくるのも、人が人を見ないでは生きていけない人の本性を語っています。

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 ヨブは世俗的な生き方においても達人だったでしょう。でなければ、東の地方一番の長者となって、その状態を維持し続けることはできません。つまり、人に対する態度でも、この上なく「適切」だったはずです。礼儀正しく、相手にふさわしく、きちんと対応する人として生きて来たでしょう。
 端的に言えば、「人には親切に、神には従順に」がモットーの人生の優等生でした。

 ヨブは、エリファズたちが見舞いに来てヨブのために声を上げて泣き、七日七夜いっしょに座ってくれた時、(ヨブ記2章12節)とうとう、口を開いて自分の生まれた日をのろうのです。それまで、激しい絶望と苦悩の中でもくちびるを引き結んで、「罪を犯すようなことを口にしなかった」(同10節)にもかかわらずです。人に誠実に反応するのは「正しいこと」です。しかし、この正しさが、ヨブに「自分の生まれた日をのろわせた」のです。つまり、神に愚痴をこぼさせたのです。
 人の世界の正しさと神の世界の「義(ただ)しさ」が、乖離(かいり)する瞬間です。

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 Aさんの忠告は、「こういうことだったのか」と、今、私は思うのです。
 穏やかで控えめで、けっして知ったかぶりをしたり、みことばを振りかざして人を驚かせるような女性ではなかったAさん。でも、彼女は、信仰の道を歩もうとする私に、大変本質的なアドバイスをして下さっていたのです。

 暮し向きも人柄も申し分がないように見えた彼女に、ヨブのような体験があったかどうかはわかりませんが。





posted by さとうまさこ at 09:41| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月03日

Coffee Break 知恵文学・ヨブ記98 ヨブ記の語るもの6・もしも、エリファズたちが来なかったら



 「人を見てはいけない。神を見上げるのだ」と、私も時々自分に言い聞かせます。人が邪悪だからではありません。人は、しばしば、「誘惑する者」だからです。とても魅力的なのです。すばらしいラブロマンスの主人公になるような「カッコいい」人たちだけではなく、ふつうに出会うお隣さんや電車で隣り合わせただけの人や、道行く子どもたちやお年寄りも、人を惹きつけて止まない何かを放っています。
 桜の花の美しさが、どれほど神秘的だといっても、一人の人間の神秘には比べようもありません。強く惹かれあいながら、決してわかりえない人間関係はさらに神秘的です。
 どんなに理性的な人も、ときに妙な人間関係のワナに捉えられてしまいます。いえいえ、「悪女に夢中になって身を滅ぼすりっぱな政治家の話」ではありません。

 ヨブはエリファズたちの存在に反応して、思わず自分の日をのろいました。(ヨブ記3章1節) エリファズたちは、ヨブの状況の中では一番真実な友でした。すべての人がヨブを捨てたのに、遠くからやってきてヨブと共にいっしょに座ってくれたのです。初めは、ヨブのあまりにも悲惨な姿に、口を開くこともできなかったのです。
 皮肉なことに、この友人たちの共感が、ヨブの堅い信仰を崩したのです。
 友人たちの真摯な態度に、何か「誘惑するもの」があったのでしょうか。それとも、はじめから、ヨブの信仰心が「その程度」だったのでしょうか。

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 はっきりしています。
 ここにはサタンが働いているのが見えるのです。サタンはエリファズたちの善意と共にやってきたのです。
 サタンは、「慰められたい」というヨブの気持ちの中にも、入りこんでいました。サタンに目をつけられたら、いかに簡単にそのワナにかかるか、ヨブ記は語っています。
 善意という「魅力的な」心情の中にも、「人の慰めを喜ぶ」という人間の自然な感情の中にも、サタンは働くのです。
 だとしたら、いったい私たちは、サタンのワナを逃れることができるでしょうか。

 ですから、私たちは、人を大切に思う(見る)と同時に、それ以上に、神を見上げなければいけないのかなと、私は気づかされています。
 
 心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼ってはならない。
 あなたの行くところどこに置いても主を認めよ。
 そうすれば主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。(箴言3章6節)
 






posted by さとうまさこ at 10:54| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月04日

Coffee Break 知恵文学・ヨブ記99 ヨブ記の語るもの7・サタンはどこへ行った?



 ヨブは、最終的には、神とお遭いすることができました。泣き叫ぶヨブに、神が答えてくださったのです。神は見当違いな非難を浴びせ続けたエリファズなど三人の友人を断罪し、その罪の贖いのために全焼のいけにえを要求されたのです。全焼のいけにえをささげ、彼らのために祈る役割りをヨブに振り当てられました。

 ヨブの潔白とエリファズたちの過ちを、神ご自身が明白にし、裁かれたのです。さらに、ヨブの持ち物を倍にして回復して下さいました。十人の子供も、またお与えになりました。「めでたし、めでたし」です。

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 としても、私たち読者には、何か腑に落ちない感じが残ります。ヨブにはわからないことですが、ヨブの苦難は天上の会議で決められたのです。サタンが神に願い出て、ヨブを試みに合わせたのです。神は最初からヨブの誠実をご存知でしたから、わかっていてサタンの申し出を受けいれられたのでしょう。
 二度目にサタンが現れた時、余裕しゃくしゃくでたしなめておられます。

 「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」(ヨブ記2章3節)

 ところが、サタンは、さらに神に挑戦するのです。「今、あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっとあなたをのろうに違いありません。」(同2章5節)
 その結果、ヨブは悲惨な腫物で絶体絶命の苦しみを味わうのです。また、愚痴をこぼし、自分の生まれた日をのろうのです。

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 サタンは結局、二度しか現れませんでした。どうしてでしょう。
 ヨブの持ち物を二倍にして回復してやろうとする神様の前に、出てきた様子はありません。ヨブの苦しみを見て溜飲を下げたからでしょうか。神様との賭けに置いて、けっきょくサタンは、神様に勝ったと思い、次の標的を求めて、どこかを行き巡っているのでしょうか。

 でも、こういう時、私など考えるのです。なぜ、このようなサタンを、神様は放し飼いにしておられるのか。サタンの目的は創世記の時代から明らかなのです。神と人とを引き離すことに快感を抱くのです。サタンのせいで、どれだけ多くの神のしもべが苦しめられていることでしょう。だったら、この際、サタンを強く叱責し、場合によってはその手足を縛って滅ぼしてくださるといいのに・・・。

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 ヨブ記では、ヨブを苦しめたサタンは、神の叱責を受けていません。つぎの獲物を捜して地を生き巡っているのでしょう。
 「サタンがどこにいるか?」と問うと、「私たちの只中」とでも答えるしかないかもしれません。
 そうなのです。善意や慰めの中にさえサタンが紛れ込んでいるとしたら、悪意や我欲をもたないでは生きていけない私たちの世界から、サタンを追放するなんて無理です。

 サタンが恐れるのはただ一つ、神ご自身です。その神ご自身が、自らの血(御子の犠牲)で私たちを贖って下さるという方法の前に、サタンの試みは無力になったからです。
 信仰の優等生でなくても、大きなささげ物ができなくても、祭司の家柄でなくても、役員選挙に外れても大丈夫なのです。イエス・キリストを信じる信仰だけで私たちは神とお話しができるのを、げんに体験しています。
 まだまだ不完全で、しばしばサタンにとらわれそうになりますが。

 もちろん、聖書には、サタンが滅ぼされる日も明記されています。(黙示録20章10節) 







posted by さとうまさこ at 09:54| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月05日

Coffee Break 知恵文学・ヨブ記100 今日はイースターです。



 今日はイースターです。

 何が嬉しいと言っても、イエス様が復活され、いまも生きておられるのを信じられるほど嬉しいことはありません。
 私たちはよみがえられたイエス様と毎日お会いしているのですが、主の十字架刑のあとの絶望の中で、復活のイエスに会った弟子たちの喜びに、あらためて想いを寄せたいと思います。


 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。(ヨハネの福音書20章1節)
 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」(2節)
 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。(3節)
ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。(4節)
 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。(5節)
 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、(6節)
イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。(7節)
 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。(8節)
 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。(9節)
 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。(10節)

 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。(11節)
すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。(12節)
 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」(13節)

 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。(14節)
 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
 彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」(15節)

 彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。(16節)


         感謝!!






posted by さとうまさこ at 09:20| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする