2015年04月02日

Coffee Break 知恵文学・ヨブ記97 ヨブ記の語るもの5・正しさと義(ただ)しさの乖離(かいり)



 教会に集い始めた時、私は先輩のクリスチャンたちから、ふたつの異なった忠告をいただきました。
 Aさんは言いました。「いいですか。神様を見上げるのですよ。人を見ているとつまずきます」一方、Bさんが言いました。「牧師の言うことには、絶対に逆らってはいけないのよ」
 どちらもとてもまじめな感じのよい、長いクリスチャン生活を送ってきた女性でした。

 言葉の意味としてはBさんの方がわかりやすいのです。「いいですか。あの人にだけは逆らってはいけないですよ」というパターンは案外過去に経験しています。まあ、「絶対に」なんて言われると抵抗はあります。経験しているだけに、抵抗があるのでしょう。
 ???だったのは、Aさんの言葉です。まだ、「神様を見上げる」経験が浅かったのでしょう。「人を見る」というのもよくわかりません。

 教会生活が続くうちにだんだんわかってきました。私たちは(私は)、祈りながらも「人の気配」を見ているのです。神様の御声を聞くために耳を澄ませると、人の声が先に入ってくる有様です。人が喜ぶとき喜び、人が泣くときいっしょに泣く(ローマ人への手紙12章15節)。これはたしかに聖書でも勧められている態度ですが、人の喜ぶ顔や泣く顔ばかりが気になると本質を見失いますね。でなくても、人は、本能的に相手の顔色を読んでいるのです。人の態度に反応して生きぬいていると言っても過言ではありません。「人の心を読む方法」などという生き方指南の本が後からあとから出てくるのも、人が人を見ないでは生きていけない人の本性を語っています。

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 ヨブは世俗的な生き方においても達人だったでしょう。でなければ、東の地方一番の長者となって、その状態を維持し続けることはできません。つまり、人に対する態度でも、この上なく「適切」だったはずです。礼儀正しく、相手にふさわしく、きちんと対応する人として生きて来たでしょう。
 端的に言えば、「人には親切に、神には従順に」がモットーの人生の優等生でした。

 ヨブは、エリファズたちが見舞いに来てヨブのために声を上げて泣き、七日七夜いっしょに座ってくれた時、(ヨブ記2章12節)とうとう、口を開いて自分の生まれた日をのろうのです。それまで、激しい絶望と苦悩の中でもくちびるを引き結んで、「罪を犯すようなことを口にしなかった」(同10節)にもかかわらずです。人に誠実に反応するのは「正しいこと」です。しかし、この正しさが、ヨブに「自分の生まれた日をのろわせた」のです。つまり、神に愚痴をこぼさせたのです。
 人の世界の正しさと神の世界の「義(ただ)しさ」が、乖離(かいり)する瞬間です。

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 Aさんの忠告は、「こういうことだったのか」と、今、私は思うのです。
 穏やかで控えめで、けっして知ったかぶりをしたり、みことばを振りかざして人を驚かせるような女性ではなかったAさん。でも、彼女は、信仰の道を歩もうとする私に、大変本質的なアドバイスをして下さっていたのです。

 暮し向きも人柄も申し分がないように見えた彼女に、ヨブのような体験があったかどうかはわかりませんが。





posted by さとうまさこ at 09:41| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする