2015年04月11日

Coffee Break・詩編5 主よ。朝明けに私たちの声を聞いてください。(詩編5篇1節〜12節)



 指揮者のために、フルートに
合せて。ダビデの賛歌


 私の言うことを耳に入れてください。主よ。
 私のうめきを聞き取ってください。(詩編5篇1節)
 私の叫びの声を心に留めてください。
 私の王、私の神。私はあなたに祈っています。(2節)
 主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
 朝明けに、私はあなたのために備えをし、
 見張りをいたします。(3節)

 私たちキリスト者は、朝、デボーションをするように励まされています。手元にある祈りの本(池田博著・「祈りは私を変え、教会を変える」いのちのことば社)でも、祈る時間として朝が勧められています。(p21、いつ祈るか)

 目覚めと同時に神様に語りかけるのは、たしかに朝最初の一杯の水、私ならコーヒーにも勝るのは当然です。眠っている間に体や心がどのように変化しているかは、なかなか自覚できません。しかし、眠りから目覚めると、私(たち)は、行うべき新しい課題に気付かされ、解決しなければならない心のもつれが、今まさに喉元に上がって来ているのを覚えるのです。
 体の渇きに「まず起きがけに一杯の水」が必要なように、心はもう、神様に向かって何かを言わないではおれないのでしょう。
 
 詩編の作者は、それを自覚的に「朝明けにあなたのために備えをし」と、神様に語りかけています。

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 あなたは悪を喜ぶ神ではなく、
 わざわいは、あなたとともに住まないからです。(4節)
 誇り高ぶる者たちは
 御目の前に立つことはできません。
 あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。(5節)
 あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。
 主は血を流す者と欺く者とを忌みきらわれます。(6節)
 しかし、私は、豊かな恵みによって、
 あなたの家に行き、
 あなたを恐れつつ、
 あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。(7節)

 私は最初、詩編になじめませんでした。その一番の理由は、詩編はとても人間くさいからです。この詩にもあるように、詩編の作者はしばしば、信仰者でない者、あるいは、作者の敵と思しき人たちを、ためらいもなく「誇り高ぶる者たち」「不法を行なう者」「血を流すもの、欺く者」と形容し、神に憎まれている者と位置づけしています。
 かたや、祈っている作者は「恐れつつ聖なる宮に向かってひれ伏す」正しい信仰者です。
 信仰に入ったばかりの頃は(もちろん今でも)、自分が詩編の作者のようではなく、むしろ神に憎まれている者ではないかという恐れがいつも付きまとっているのです。ですから、このような祈りに素直に入って行けないのです。

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 また、少し、信仰について知るようになると、私(たち)はイエス様の十字架に私もしばりつけられるような感覚にとらわれて来ます。
 イエス様の教えは許しの教えでもあります。「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とお教えになり、ご自分も、十字架の上から、自分を張り付けにした人々のことを、「神よ。彼らをお許しください」と祈られたのです。

 でも、詩編の作者は、きわめて「素直に」訴えます。神よ。彼らを罪に定めてください。

 主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、
 あなたの義によって私を導いてください。
 私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。(8節)
 彼らの口には真実がなく、
 その心には破滅があるのです。
 彼らののどは、開いた墓で、
 彼らはその舌でへつらいを言うのです。(9節)
 神よ。彼らを罪に定めてください。
 彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。
 彼らのはなはだしいそむきのゆえに
 彼らを追い散らしてください。
 彼らはあなたに逆らうからです。(10節)

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 私たちはきれいごとでは生きていけませんね。良い言葉だけを吐き出して、いかにも自分が「義なる人」であるかのように振る舞うことはできます。「許します」「彼等にも同情すべき事情があったのでしょう」と理性で認めても、感情はついていきません。叩かれれば痛いですし、締め上げられれば悲鳴を上げます。

 「彼を懲らしめてください」「滅ぼしてください」と思わず叫んだとしても、それはしぜんです。そう叫んだとしても、神様はそれだけで私たちをお咎めになることはないと信じられるのです。
 主はすべてをご存知で、すべてをお見通しだからです。さらに、実際に罰するかどうかも、主の主権(御手)にあることです。祈りは、模範解答を出すことではないと、ヨブ記で学んだと、私は思います。

 事実、弱い私たちが弱いままの姿をさらけ出すのを、神様はお喜びになるのではないでしょうか。
 イエス様が「敵を愛し、許しなさい」と言われたのは、無条件ではありませんね。「あなたがたも神さまに許していただいているのだから、あなたがたも人を許しなさい」。』」(マタイの福音書18章21節〜35節)と、おっしゃって下さっているのです。
 
 こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、
 とこしえまでも喜び歌いますように。
 あなたが彼らをかばってくださり、
 御名を愛する者たちが
 あなたを誇りますように。(11節)
 主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、
 大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。(12節)

 詩編の時代の人たちは、まだイエス様の十字架を知らなかったでしょう。けれども、神様の人への愛や働きは当時も今と同じように、注がれていたのでしょう。だから、み名を愛して、朝明けに祈ったあと、彼は(この作者)、神に祝福していただいき、神の愛で包まれたと確信出来たのではないでしょうか。





posted by さとうまさこ at 09:53| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする