2015年04月13日

Coffee Break・詩編7 その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。(詩編7篇1節〜17節)



ベニヤミン人クシュのことについて
ダビデが主に歌ったシガヨンの歌

 私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。
 どうか、追い迫るすべての者から
 私を救ってください。
 私を救い出してください。(詩編7章1節)
 救い出す者がいない間に
 彼らが獅子のように、私のたましいを引き裂き、
 さらって行くことがないように。(2節)

 「シガヨン」は音楽用語と考えられていて、「悲しみの歌」「挽歌」と解する説もあると、新聖書辞典は解説しています。
 ダビデは、事実上イスラエル王国の創設者です。神に召されたその劇的な生涯は聖書中、多くのページに記録されています。また、詩編といえばダビデを想起されるほどの詩人で、多くの賛美を残しています。イエス・キリストが「ダビデの子」と呼ばれている個所も多々あります。(イザヤ9章7節)(マタイ9章27節)
 イエス様がエルサレムに入場されるとき、群衆は叫びました。

  「ダビデの子にホサナ。
   祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
  ホサナ。いと高き所に。」 (マタイの福音書21章9節)


 ダビデは、神の救いのご計画の中で、アブラハム、ヤコブ(イスラエル)、モーセ、サムエルに続いて、重大な役割を神から与えられた巨人に見えます。
 ところが、聖書に記されたダビデの生涯は、苦しみや圧迫の中で逃げまどい、迷い、王権を手にしてから後でさえ、しばしば決然と振るまえないような弱い人間です。

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 詩編7章もダビデの生涯の苦しい時代の叫びであるようです。サウルに追われていた時か、アブシャロムの乱で逃げていた時でしょう。

 私の神、主よ。
 もし私がこのことをしたのなら、
 もし私の手に不正があるのなら、(3節)
 もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、
 また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、(4節)
 敵に私を追わせ、追いつかせ、
 私のいのちを地に踏みにじらせてください。
 私のたましいをちりの中に
 とどまらせてください。セラ(5節)

 とくに、サウルに追い回されるときのダビデは悲惨です。ダビデは、サウルの家来であり、娘婿でした。ペリシテ人ゴリヤテを倒す英雄的行為でイスラエルとサウル王を救った功労者でした。神に見放されたサウル王は、そのダビデに対して、妄想に捕らわれるようになり、殺さねばならないと思い込み、刺客となって追い回すのです。
 理由なく罪を着せられるほど、辛くて悔しいことはありません。それゆえ、いのちまで狙われるとき、私たちは、どうすればよいのでしょう。ダビデは、身に覚えのない罪のことを思い、もし、そのとおりなら、自分は殺されてもよいと言うのです。
 
 しかし、主がお調べになれば、無実がわかるはずだと、ダビデは確信をもっています。
 それゆえ、次のように歌います。

 主よ。御怒りをもって立ち上がってください。
 私の敵の激しい怒りに向かって立ち、
 私のために目をさましてください。
 あなたはさばきを定められました。(6節)
 国民のつどいをあなたの回りに集め、
 その上の高いみくらにお帰りください。(7節)
 主は諸国の民をさばかれる。
 主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、
 私を弁護してください。(8節)
 どうか、悪者の悪があとを絶ち、
 あなたが正しい者を堅く立てられますように。
 正しい神は、心と思いを調べられます。(9節)

 ヨブは神に自分の無実を訴えるために、弁護者を求めました。ここで、ダビデは、直接神を「弁護して下さる方」として、願っています。

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 私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。
 神は正しい審判者、日々、怒る神。
 悔い改めない者には
 剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、
 その者に向かって、死の武器を構え、
 矢を燃える矢とされる。

 人間の弁護士さんは、「依頼人の利益を代表する」のだと、聞いたことがあります。弁護士自身が、事件に関わる依頼人の「正邪」を判断するのではありません。うまく釈明できない依頼人の言い分をよく聞いて代弁して上げるのです。たとえ、誰から見ても極悪非道な死刑囚であっても、本人には言い分があるはずなのです。昔から、庶民の間でさえ、「盗人にも三分の理」と言いました。まして、潔白なのに冤罪に苦しむ者を、神が放置されるでしょうか。
 
 神は弁護者であり、同時に審判者であられます。神ならぬ人間には到底できない一人二役です。場合によっては敵対する役割さえ、神は公正に行われます。

 見よ。彼は悪意を宿し、
 害毒をはらみ、偽りを生む。(14節)
 彼は穴を掘って、それを深くし、
 おのれの作った穴に落ち込む。(15節)
 その害毒は、おのれのかしらに戻り、
 その暴虐は、おのれの脳天に下る。(16節)

 その義にふさわしく、
 主を、私はほめたたえよう。
 いと高き方、主の御名をほめ歌おう。(17節)

 神の審判が下るとき、悪者は自分の掘っている穴に落ち、人を打つために投げた石も自分の頭に帰るのです。
 この確信こそが、神への信頼です。神の義とはそのように究極的に悪を退けてくださるものです.ですから、神をほめたたえようと、ダビデは歌っているのです。



posted by さとうまさこ at 10:15| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする