2015年04月19日

Coffee Break・詩編13 主よ。お救いください。聖徒はあとを絶ち(詩編12篇1節〜8節)




指揮者のために。八弦の竪琴に
合わせて。ダビデの賛歌


 主よ。お救いください。
 聖徒はあとを絶ち、
 誠実な人は人の子らの中から消え去りました。(詩編12章1節)

 聖徒とは、神に対して忠誠を尽くす信仰者のことであり、また、神を畏れて人道的に振る舞う人のことであると考えられる。(新実用聖書注解・いのちのことば社)

 この詩も、「ダビデが実際に遭った困難の中での祈りに拠るもの」と考えられています。昨日も見たように、ダビデがゴリヤテを打って、イスラエルの英雄になった時から、彼は困難の中を歩むことになりました。時の王サウルは、もともとは神の召命によって選び出され、大預言者サムエルから油を注がれました。純朴でこころやさしいベニヤミン族の農家の息子は、とつぜん一躍全イスラエルに号令する王となったのでした。しかし、前例のない王という立場を、サウルは、主(しゅ)に忠実な聖徒として生きることができませんでした。

 イスラエルの王は、実質的な権力者として、神から立てられたはずでした。神聖政治国家イスラエルの政治を預かる立場です。主要な役割は、武力をもって周辺国からイスラエルを守ることです。国を守る王には、国民を組織し、国民から税や労役を取り立てるなど、多大の権力も付与されました。その結果、王に従う民の中に、神よりも、世俗的な王を恐れてへつらう者が出て来たとしてもふしぎはありませんでした。
 結果的に、このような世俗的な権力は、必然的に、聖徒たちの純潔を損なうものでした。

 モーセの時代にも士師記の時代にも、神に従えない「神の民」は大勢いました。「めいめいが自分の目に正しいと思うことを行なった」時代です。ところが、従うべき王が現れると、人は王にへつらうようになり、正しい人を圧迫するようにさえなるのです。
 
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 人は互いにうそを話し、
 へつらいのくちびると、二心で話します。(2節)
 主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、
 ことごとく断ち切ってくださいますように。(3節)
 彼らはこう言うのです。
 「われらはこの舌で勝つことができる。
 われらのくちびるはわれらのものだ。
 だれが、われらの支配者なのか。」(4節)

 これもTサムエル記時代のダビデの困難に由来するようです。Tサムエル記22章9節です。
 ダビデがサウル王から逃げて、ノブの祭司アヒメレクのところに逃れたとき、エドム人ドエグがその場に居合わせたのです。後に、サウルがダビデのことで家来たちを咎めている時、ドエグはに王にこびて、自分が目撃したことをサウルに告げ口するのです。この告げ口によって、祭司アヒメレクの一家は、男も女も子供も乳飲み子までもことごとく剣で惨殺されました。祭司を殺すというような「聖徒としてあるまじき行為」を、その場にいた人たちは、誰ひとり止めることができなかったのです。

 聖職者たちをさえ、くちびるで告げ口し、「だれが、われらの支配者なのか。」と、うそぶくような風潮が蔓延していたわけです。

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 もちろん、ダビデのこの辛い経験は、ダビデだけのものではありません。
 その後のイスラエルにも、そして今日のキリスト教世界にも、クリスチャンたちの身の上にも、同様のできごとがあり得るでしょう。
 二心をもって生き、くちびるで悪を行ない、自ら聖徒である立場を忘れ、また支配者に聖徒たちを売るような風潮があるなら、人は、聖徒として生きていけません。聖徒はあとを絶ちなのです。
 でも、絶望することはないのです。祈りに答えて、主は次のように仰せなのですから。

 主は仰せられる。
 「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、
 今、わたしは立ち上がる。
 わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」(5節)
 主のみことばは混じりけのないことば。
 土の炉で七回もためされて、純化された銀。(6節)

 あなたが、主よ、彼らをお守りになります。
 あなたはこの時代からとこしえまでも
 彼らを保たれます。(7節)
 人の子の間で、
 卑しいことがあがめられているときには、
 悪者が、至る所で横行します。(8節)





posted by さとうまさこ at 09:18| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする