2015年04月21日

Coffee Break・詩編15 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている(詩編14篇1節〜7節)





指揮者のために。ダビデによる

 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。
 彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。
 善を行なう者はいない。 (詩編14篇1節)
 主は天から人の子らを見おろして、
 神を尋ね求める、悟りのある者が
 いるかどうかをご覧になった。(2節)
 彼らはみな、離れて行き、
 だれもかれも腐り果てている。
 善を行なう者はいない。ひとりもいない。(3節)

 この詩は、ダビデのどのような時期を背景にしているのかはわかりません。だいたい、表題で「ダビデによる」という場合も、ダビデ作と同義ではないのです。(新実用聖書注解・いのちのことば社P723「表題の用語」)
 思うに、苦しめられたとき、ダビデは、敵の心の中に「神がいる」とは見えなかったことでしょう。
「神を信じていたら、神を畏れていたら、そんなことはできない」と思える出来事は今日でもたくさんあります。快楽殺人や自分のなぐさみのための盗みや万引き、幼い少女を買春する大人。不倫、姦淫。わいろ、むさぼり、政治家の腐敗。これらの多くは、神に、その是非を問う心があれば行えないことです。
 ダビデが歌っているのは、異邦人(アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じていない外国人)のことではないと思います。まさに、神の選びの民であったイスラエル人の中に、「神はいない」と言うような者が横行していたのでしょう。

 もっとも、このような者たちは、ダビデの時代に急に増えたのではありません。神の選びの民族、アブラハムの子孫達が形成したイスラエル。エジプトから、神のお約束どおり救い出されたイスラエル民族が、救い出された直後からしばしば神に背いていたのです。
 そしてまた、イエス様が世に来られた時代も、「神はいない」とうそぶく者たちが蔓延していました。
 パウロは詩編を引用して嘆いています。

  それは次のように書いてあるとおりです。
  「義人はいない。ひとりもいない。
  さとりのある人はいない。神を求める人はいない。
  すべての人が迷い出て、
  みな、ともに無益な者となった。(ローマ人への手紙3章10節〜12節)

★★★★★

 不法を行なう者らはだれも知らないのか。
 彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、
 主を呼び求めようとはしない。(4節)
 見よ。彼らが、いかに恐れたかを。
 神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。(5節)
 おまえたちは、悩む者のはかりごとを
 はずかしめようとするだろう。
 しかし、主が彼の避け所である。(6節)

 神を信じない者たちが不法を行なうとき、一見犠牲になるように見える「神の民」は、それでは、無念の内に「滅び」て行くしかないのでしょうか。

 そんなことはありません。神がイスラエルとともにおられることは、ダビデの時代でもすでに何度も実証されていることです。
 先住民がいて他民族がいつも侵入してくるカナン、豊かであると同時に自然災害の多い土地でしたが、それでも、主は約束の地を与えて下さり、ついには王制の国も立ててくださったのです。
 シオン(エルサレム)は、神の都、イスラエル民族の中枢でした。
 そこには、やがて神殿が建てられ、壊されても、壊されても神殿が建て挙げられ、神の言葉が,そこから、全世界に広がって行ったのです。

 ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。
 主が、とりこになった御民を返されるとき、
 ヤコブは楽しめ。
 イスラエルは喜べ。(7節)






posted by さとうまさこ at 10:02| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする