2015年04月22日

Coffee Break・詩編16 だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。(詩編15篇1節〜5節)




ダビデの賛歌

主よ。
だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。(詩編15篇1節)

 旧約の時代の幕屋は、神が人の世界に歩み寄って下さって、そのご臨在がある場所です。
 幕屋で神とお会いできるのは祭司、それも大祭司だけでした。制度的には祭司以外は、だれも幕屋に入ることさえできなかったのです。ですから、ここで言われているのは霊的に幕屋に入ることでしょう。幕屋で宿ることもふつうは許されないでしょうが、霊的に宿ることはできます。
 神様のご臨在のあるところでは、至高の祝福と平安があり、すべての悪から守られるはずです。
 およそ、信仰者が「幕屋に宿る」のを願うのは当然です。

 こんにちの私たちは、イエス様により頼み、イエス様に信頼してついて行くだけで、父なる神様にお会いできるのです。大祭司の血筋でなくても、牧師や神学者でなくても、キリスト教についてよくわからなくても、聖書知識がほとんどなくても大丈夫なのです。肩書や功績やキャリアではなく、(私が)キリストに信頼する意志が第一だとされているからです。
 ですから、詩編15篇の、この問いは、ある意味クリアできているのです。
 少なくとも旧約時代のイスラエルの民と比べたら、幕屋に宿るハードルは、まるで低くなっているのではないでしょうか。
 ただ、主イエスに信頼して、日々祈りを新たにすればよいのですから。

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 もちろん、旧約の時代にも、幕屋以外で神様とお会いする人たちがいました。預言者と言われる人たち、また王や民の指導者、庶民であっても、神さまがその人を用いようとされるときには、顕現して下さったのです。
 しかし、そのような神からの選びがない人々の心にも、神とお会いしたいという気持ちは切実だったでしょう。
 そのためには、神様の前に正しくなければいけないと、信仰者は思っていたはずです。
 
 正しく歩み、義を行ない、
 心の中の真実を語る人。(2節)
 その人は、舌をもってそしらず、
 友人に悪を行なわず、
 隣人への非難を口にしない。(3節)
 神に捨てられた人を、その目はさげすみ、
 主を恐れる者を尊ぶ。
 損になっても、立てた誓いは変えない。(4節)
 金を貸しても利息を取らず、
 罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。
 このように行なう人は、決してゆるがされない。(5節)

 ここで戒められていることは、十戒とその細則の時代の戒めと変わっていません。 
 「正しく歩み、義を行ない」は、神様に対する真実な態度について言及しているのでしょう。
 3節からは、友人や隣人への態度が問題になっています。友人に誠実であること、誓いを守ること、悪口を言いふらさないこと。(出エジプト記23章1節〜)とりわけ、イスラエル人同士で金を貸した場合、利息を取ることは律法違反です。(出エジプト記22章25節) わいろについても戒められています。(同23章8節)

 主の幕屋に宿るために、まず、目に見える倫理的なものを正そうというのがこの詩の要旨です。しかし、これは、イエス様の贖いによって救われている私たち新約の民にとっても大切なことですね。
 倫理的に正しくあってさえ、人間には罪があるのですが、自分でどうにもできないところを「ないものにして下さる」のが、イエス様の贖いなのですから。






posted by さとうまさこ at 09:54| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする