2015年04月23日

Coffee Break・詩編17 神よ。私をお守りください。(詩編16篇1節〜7節)




ダビデのミクタム

 神よ。私をお守りください。
 私は、あなたに身を避けます。(詩編16篇1節)
 私は、主に申し上げました。
 「あなたこそ、私の主。
 私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(2節)

 私をお守りください。これも祈りの言葉として、多用されているものでしょう。
 詩編が私たちの心を捉えるのは、私たちにとって一番切実な願いを、率直に神に申し上げていることばが多いからかもしれません。
 私たちは、人生において、「私をお守りください」と叫びたいことが、実に多いのです。これは、私のような無力な庶民のおばさんだけでなく、不動の財力や社会的地位や名声に守られているセレブと呼ばれるような人たちでも、世の権力者でも、同じことでしょう。立場上、弱点を見せることができない人たちなら、なおのこと、人の前では助けを求めなくても、神に助けを求めているのではないでしょうか。

 事実、神様は日夜、神を呼び求める者をそのままにはしておかれないのです。(新約聖書・ルカの福音書18章7節) 神さまご自身は、私たちの避け所で、自分でその気になればいつでもそこに入ることができるのです。
 また、そのように、いつでも求める者に避け所を提供して下さるのでなければ、主(しゅ)と呼べるでしょうか。そのような主は、たしかに、私の幸いとイコールで結ばれるのです。

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 地にある聖徒たちには威厳があり、
 私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
 ほかの神へ走った者の痛みは(3節)
 増し加わりましょう。
 私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、
 その名を口に唱えません。(4節)

 地にある聖徒とは、この地上における信仰の仲間のことです。わざわざ聖徒と言う呼び方をするのは、彼らが主のために、主が聖であられるゆえに、自らを聖別しているからです。(新実用聖書注解・いのちのことば社)

 ダビデは歌います。避け所にかくまって下さる神を捨てて、他の神に走る者がいるのです。彼らは、血を飲む者と、形容されています。イスラエルの神は、たとえ動物の血であっても、血を飲むことを禁じています。対して、異教徒たちは、無頓着に血の付いた肉を食したのでしょう。あるいは宗教的祭儀として血を飲んだのかもしれません。そのような「聖くない」食物を食べたり、彼らの神の名を唱えることは、主に対して大きな罪を犯すことです。

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 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。
 あなたは、私の受ける分を、
 堅く保っていてくださいます。(5節)

 これは、ヨシュア記の「相続地分割」が背景にあります。そのとき、レビ族だけは相続地をもらえなかったのです。彼らは、祭祀儀礼を司る部族として、「主」が相続地だと決められました。レビ族の生活は、他の部族がささげる十分の一で支えられました。しかし、(日常生活に必要な菜園、放牧地、住まいの場所である)放牧地は、与えられました。
 他方、他のイスラエル人たちも主のためにささげ物をし、主の守りの中で生きていたのです。これは、彼らにとって、主が、相続地であったことにほかなりません。

 測り綱は、私の好む所に落ちた。
 まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。(6節)

 測り綱とは、土地を量るときメジャーのように使う縄です。主を、相続地とした者に、主もまた望みどおりの地を下さったというのです。
 適切な助言をいただいたダビデは、主をほめたたえずにはいられなかったのです。
 夜になって静まったとき、主をほめたたえることができるのは、幸せですね。

 私は助言を下さった主をほめたたえる。
 まことに、夜になると、私の心が私に教える。(7節)






posted by さとうまさこ at 09:36| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする