2015年04月24日

Coffee Break・詩編18 私はいつも、私の前に主を置いた(詩編16篇7節〜11節)



 私は助言を下さった主をほめたたえる。
 まことに、夜になると、私の心が私に教える。(詩編16篇7節)

 「主をほめたたえる」のは、キリスト教信仰の出発点だと思います。かく言う私も、祈りの冒頭が、「お名前をほめたたえる」ところから始める意味が、なかなか呑み込めない時期がありました。お名前を褒め称えるのが、主に対する絶対的なへりくだりを表明することだと理解できなかったのです。主が私に何か「良いこと」をして下さった時、「感謝します」が、適切な言葉のような気がするのです。
 確かに、人間同士だと、「感謝します」「ありがとうございます」と言うでしょう。間違っても、「お名前をほめたたえます」とは言いません。
 「ほめたたえる」のは、超絶者・神だからこそ起る、じつに特別な尊崇の想いなのではないでしょうか。

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 同様に、「右に置く」も、神の権威を意味する定型表現かと思われます。
 イエスは、天にお帰りになったのち、「神の右の座」に着いておられるのです。このことは、詩編110篇のダビデの賛歌に歌われています。(→詩編110篇1節
 なぜ、左ではなく右なのかといった問は、あまり意味がないと、さとうは思います。多くの右利きの人にとっては、右は左より「働く手」です。したがって、一般的に剣は右手で扱われました。剣は最終的に、もめごとに決着をつける時に使われるのです。そこから、神の全権は、右側にあると考えられたのかもしれません。
 ちなみに、神の右手に剣(つるぎ)があるとしても、「正しい人」は、それを恐れることはありません。むしろ、その右手の審判が、自分に喜びと楽しみを与えてくれると、希望を抱くことができるのです。

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 しかし、自分が正しいかどうか、人には判断が付くのでしょうか。義人ヨブでさえ、その義が疑われたのです。
 その基準を、ダビデは明快に言ってのけます。

 私はいつも、私の前に主を置いた。
 主が私の右におられるので、
 私はゆるぐことがない。(8節)

 そうなのです。私の前に、主を置くこと。そうすれば、たとえ、過った時でさえ、主は導いてくださるはずです。
 
 それゆえ、私の心は喜び、
 私のたましいは楽しんでいる。
 私の身もまた安らかに住まおう。(9節)
 まことに、あなたは、私のたましいを
 よみに捨ておかず、
 あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。(10節)
 あなたは私に、いのちの道を
 知らせてくださいます。
 あなたの御前には喜びが満ち、
 あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(11節)

 さらに、この箇所は、後にペテロによって引用され、それが使徒の働き2章25節以下に記録されています。
 まことに、すばらしい賛美の詩です。



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posted by さとうまさこ at 09:48| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする