2015年04月25日

Coffee Break・詩編19 主よ。聞いてください、正しい訴えを(詩編17篇1節〜5節)



 主よ。聞いてください、正しい訴えを。
 耳に留めてください、私の叫びを。
 耳に入れてください、欺きのくちびるからでない
 私の祈りを。(詩編17篇1節)
 私のためのさばきが御前から出て、
 公正に御目が注がれますように。(2節)

 一生に一度も、「私の言い分を聞いてくださいよ」という出来事に遭わない人はまれではないでしょうか。どんなに平穏な人の生涯にも、人との間の齟齬(そご――心の行き違い)、誤解、中傷などが入り込み、落ち込んだり、じっさいにも損失を被ることがあるのではないでしょうか。

 私にも鮮明に思い出せる場面があります。
 小学校の一年生になったばかりでした。雨の日で、当時は物のない時代ですから、みんなカサを自分の座席の横に置いていたのです。なんのはずみか、私は近くにいた女の子と喧嘩になりました。口げんかだったのですが、私はなぜか自分のカサを手に取っていたのです。同時に、女の子がわっと泣き出しました。
 先生が飛んできて「どうした」とにらみつけます。まわりにいた子どもたちが、いっせいに、「まさちゃんがカサでさっちゃんを突いた」と言い立てたのです。
 それを聞くと先生は、私のカサを手に取って、烈火のごとく怒鳴ったのです。「こんなもので突いたら危ないじゃないか!」 顔に深いしわを刻んだ年配の男の先生は、いつもはとても優しい方なのです。その先生が突然問答無用に決めつけて叱るのです。まわりの子どもたちは調子に乗って「まさちゃんが! まさちゃんが」と言い立てます。めったに泣かない私ですが、そこは子どもです。追いつめられて、わっと泣き出したのです。
 この出来事がその後の人生に影を落としたというのでもないですし、悔しくて眠れないなんてこともなかったのです。ですが、なぜか「先生に叱られた」と、親にも言えず、それが、いまだに覚えている理由かもしれません。

 子どもであったとはいえ、私がもし、神様に祈ることを知っていたら、きっと「神様、聞いてください」と訴えただろうと思います。

 些細なことであっても、「聞いてください。耳に留めてください。耳に入れてください」と神様に言えるのはどれほど感謝なことだろうと思うのです。
 まして、サウル王に追われるダビデのように命に係わる苦しみの中では、神さまに祈ることができることは、どれほど救いになったことでしょう。
 なんといっても、「聖書の神」は生きて働かれる神様なのです。

★★★★★ 

 あなたは私の心を調べ、
 夜、私を問いただされました。
 あなたは私をためされましたが
 何も見つけ出されません。
 私は、口のあやまちをしまいと心がけました。(3節)

 正しい訴えに対して、神さまがちゃんと答えてくださるのです。
 「何も見つけ出されません。」と言えるダビデの心に深い安堵、平安が生まれているのに気付かされます。
 「わかって下さる方がいる。公正なさばきをして下さる方がいる」と思う時、ダビデはさらに、裁きを主にゆだねています。

 人としての行ないについては、
 あなたのくちびるのことばによりました。
 私は無法な者の道を避けました。(4節)
 私の歩みは、あなたの道を堅く守り、
 私の足はよろけませんでした。(5節)

 罵りに対して罵り返したりするとき、人間のすることは、過剰反応です。自分の言葉で言い返すとつい、相手を嘘をついても攻撃しようとしてしまいます。
 「目には目、歯には歯」どころか、一つの目には両目、一本の歯で腕まで攻撃するのが人間なのです。
 神に訴えて、「あなたの御言葉によって裁いていただきたい」と言える、ダビデは、こうして「無法者」になるのを避けることができたのです。






posted by さとうまさこ at 10:21| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする