2015年04月26日

Coffee Break・詩編20 主よ。聞いてください、正しい訴えを(詩編17篇6節〜15節)



 神よ。私はあなたを呼び求めました。
 あなたは私に答えてくださるからです。
 耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。(詩編17篇6節)

 キリスト教の神さまは「生ける神」です。私たちがキリストを信じ、従おうと決心したきっかけは、人さまざまでしょう。親に連れられて教会へ行っていたから。あるいは奥さんを教会へ送り迎えしていたから。友人が誘ってくれたからなど最初の出会いはさまざまです。でも、そこで、ある時、「救いを受けいれよう」と思うきっかけは、個人的なものです。個人的に神様の啓示を受け取る瞬間があるのです。
「神さまがおられる!」「この方に従って行こう」

 さらに、救いを受けいれ、信仰告白をし、洗礼を受けた後でも、信仰生活が継続していくのは「生ける神」を体験し続けるからではないでしょうか。
 もし、キリストが生きてあなたとともにおられ、あなたの呼びかけに答えてくださる体験をしないのなら、信仰はなんと空しいことでしょう。「イエス・キリストのお名前で祈ります」という言葉も、ただの「空念仏」に過ぎなくなってしまうでしょう。「私の申し上げることを聞いてください」という呼びかけも意味をなさなくなってしまいます。

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 あなたの奇しい恵みをお示しください。
 立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を
 救う方。(7節)
 私を、ひとみのように見守り、
 御翼の陰に私をかくまってください。(8節)
 私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。(9節)

 ダビデにとって神様は、たんにダビデの訴えを聞いて下さるだけの方ではありません。大きな翼とめんどりの慈しみに満ちたひとみを持っていて、悪者から逃れて来る者をかくまって下さる方なのです。
 「御翼の陰」は、聖書における神のまったき守りと保護を意味する定型句(慣用句)です。詩編では、何度もこの言葉が、神の守りの美しい象徴として使われています。

 彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、
 その口をもって高慢に語ります。(10節)
 彼らは、あとをつけて来て、今、
 私たちを取り囲みました。
 彼らは目をすえて、
 私たちを地に投げ倒そうとしています。(11節)
 彼は、あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、
 待ち伏せしている若い獅子のようです。(12節)

 悪者に追われて、取り囲まれるのは、本当につらいことです。何故、悪者が強いのかといえば、彼らが最初から「神を畏れない」高慢な心の持主だからです。
 人を倒そうとして人の後をつけて来ることや、待ち伏せしているライオンのようが獲物に迫るように、無実のダビデに迫ることができるのは、神の目を意識しないからです。

 ダビデが、サウルから追われる期間はほぼ十年間もありました。サウルは何故、それほど執拗に家来の一人で娘婿でもあったダビデを追い回したのでしょう。それは、サウルから「神が離れておられた」からです。王に注がれる神の霊は、ダビデに油を注がれた時、サウルから取り去られました。(Tサムエル記16章14節) その結果、サウルはサタンに支配されるままの人格に成り下がったのです。
 ダビデは、主に信頼して祈ります。

 主よ。立ち上がってください。
 彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。
 あなたの剣で、悪者から私のたましいを
 助け出してください。(13節)
 主よ。人々から、あなたの御手で。
 相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。
 彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、
 彼らは、子どもらに満ち足り、
 その豊かさを、その幼子らに残します。(15節)

 悪者が強いのは、この世の富で満たされ、豊かさに囲まれているからと、ダビデは考えています。
 じっさい、サウルは王で、イスラエル中の富を支配できました。対するダビデは、最初、妻の助けで寝室からやっと逃げ出したのです。彼は、一人の供も連れず、着の身着のままで、剣もなく食べ物ももっていませんでした。それが、ノブの祭司アヒメレクのところに立ち寄った理由でもありました。(Tサムエル記21章1節〜9節)
 このことで、アヒメレクは、結局殺されるのですが、ダビデは、ここから本格的な逃亡生活に入り、そして、追われる身でありながら、しだいに力をつけていくのです。
 それは、ダビデが常に主を見上げて祈ることができたからです。

 しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、
 目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。(15節)






posted by さとうまさこ at 08:45| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする