2015年04月28日

Coffee Break・詩編22 主は私の義にしたがって私に報い(詩編18篇16節〜29節)



 主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、
 私を大水から引き上げられた。(16節)
 主は私の強い敵と、私を憎む者とから
 私を救い出された。
 彼らは私より強かったから。(17節)
 彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。
 だが、主は私のささえであった。(18節)
 主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。
 主が私を喜びとされたから。(19節)

 この詩にも、ダビデの置かれた立場が現れています。主がダビデを捕え、主がダビデを救い出されているのです。それは、「彼自身が主の喜びであった」と、ダビデが思える出来事でした。

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 Tサムエル記をつぶさに読むと、時代の風雲児と呼ばれるような英雄は、個人の志や野望だけでは生まれないのだとわかります。ダビデは、一介の羊飼いの少年でした。それもエッサイの家の八人の息子の中の末っ子でした。見た目も美しく、能力もありそうな兄たちがたくさんいて、ダビデは父親からも期待されていないような「みそっかす」でした。

 ダビデに、大預言者サムエルが油を注いだのは、まさにそれが神のご命令だったからです。さらに、彼はペリシテ人の勇士ゴリヤテを倒して、一躍、イスラエルの英雄となってもてはやされるのです。王子ヨナタンの友情を得、王女ミカルの愛を得ました。ミカルを娶るようサウルから勧められ、王の婿になりました。
 サウルは、自分の地位を脅かしそうな人気者のダビデを身内にすることで、彼を取り込もうとするのですが、娘婿となったダビデへの嫉妬と猜疑はいっそう強くなるのでした。
 ダビデを将軍に取り立てて、その死を願って難しい戦いの中に送り込むのですが、ダビデはなぜか勝利を治め、ダビデの人気と人望は嫌でも高まって行くのです。
 この時期のダビデは、何をしてもどのような場面に置かれても成功し、人気が上がって行くのです。これがサウルの嫉妬にますます油を注ぐ結果になりました。そうして、ある時からダビデの逃亡生活が始まるのです。

 ダビデにしたらなぜサウルに迫害されるのか、わからない思いだったでしょう。たしかに、すでに神の霊が離れたサウルは、夜中に喚き狂い眠れない「惨めな王」でした。だからこそ、ダビデは、まだ無名の時から、琴の名手としてサウルの王宮に召されて彼の眠りのために音楽を奏でたりしているのです。

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 Tサムエル記の物語の要点は、「神の霊」です。この物語はすべて神が介入されているのだとわかるように書かれています。
 ダビデが短い期間に時代の寵児に上って行くのも、サウルが嫉妬で心を焼き焦げさせて「狂って」いくのも、すべて神が意図されていたことであったのです。

 じつは、さとうは、最初、聖書を読んだ頃、ダビデをあまり好きになれませんでした。一読してダビデは、とても魅力的に書かれているけれども、その態度は受身的なところが多く、誠実で熱心ではあっても自分の意志がどこか欠けているように見えたからです。
 彼が強い意志で立ち向かったのは、ゴリヤテとの一戦だけです。その結果、彼は一躍イスラエルの人気者になります。しかし、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と人々から賞賛されることも、ヨナタンとの友情も、ミカルの愛も、ダビデの方から野心を持って働きかけたことではありません。ダビデは、王を嫉妬で苦しめるほどの頂上にいて、運命に翻弄され始めているのです。

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 主は私の義にしたがって私に報い、
 私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。(20節)
 私は主の道を守り、
 私の神に対して悪を行なわなかった。(21節)
 主のすべてのさばきは私の前にあり、
 主のおきてを私は遠ざけなかった。(22節)
 私は主の前に全く、
 私の罪から身を守る。(23節)
 主は、私の義にしたがって、
 また、御目の前の私の手のきよさにしたがって
 私に償いをされた。(24節)

 ここは、何気なく読むと、自己中心の人間の「善因善果」願望のように見えます。しかし、ダビデがそもそも神に選ばれて神の御手のされるままの「運命」の中にいるのだとすれば、全く意味は違ってきます。激しい荒波のなかで翻弄されるままであることが、神の御心だったとしたら、苦難の中で手も足も出ないダビデは、「神からご覧になって義である」のでしょう。つまり、敵に応戦できず逃げまどうだけのダビデですが、その態度は「敵に悪を行なわない」と見なされるのです。ですから、その義に対して、神は、償いをして下さるのです。

 あなたは、恵み深い者には、恵み深く、
 全き者には、全くあられ、(25節)
 きよい者には、きよく、
 曲がった者には、ねじ曲げる方。(26節)

 あなたは、悩む民をこそ救われますが、
 高ぶる目は低くされます。(27節)
 あなたは私のともしびをともされ、
 主、私の神は、私のやみを照らされます。(28節)
 あなたによって私は軍勢に襲いかかり、
 私の神によって私は城壁を飛び越えます。(29節)

 ここにある「恵み深い」「全き」「きよい」という基準はすべて、ダビデ(人)が考えるものではないのです。ここにおけるダビデは、神の御手の中にあり、運命に翻弄されているように見えても、それは、神の御心だからです。ですから、受身的に、ただ懸命に生きていること自体が「義」であるのでしょう。そのように、神の御心にかなっているから、神はダビデを敵から守り、さまざまな困難を飛び越えさせたのです。

 このような、神とダビデとの関係が見えないと、ダビデはどこか優柔不断な煮え切らない英雄に見えてしまう。それは、要注意ですね








posted by さとうまさこ at 09:49| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする