2015年04月30日

Coffee Break・詩編24 天は神の栄光を語り告げ(詩編19篇1節〜14節)




指揮者のために、ダビデの賛歌

 天は神の栄光を語り告げ、
 大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩編19篇1節)
 昼は昼へ、話を伝え、
 夜は夜へ、知識を示す。(2節)
 話もなく、ことばもなく、
 その声も聞かれない。(3節)

 どんな無神論者も、天体に畏敬の念を抱く瞬間はあるのでしょう。「そんな理屈は、太陽が西から上ったと言うのと同じだぞ」とやっつけたりします。
 太陽が西から上るなんてあり得ない。少なくとも、人の力ではそんなことをできるわけがないと知っているのです。人の力の限界をちゃんと弁えているのです。太陽、月、星、昼と夜の交代を支配できる人間などいません。どのような賢者も学者も王も、ただ天体を見上げ、観察し、その法則を学んで、その法則の下でより良い生活をするだけなのです。
 天体は、自己主張したり、恩に着せたりするのではありません。黙って、天の軌道を進んでいるだけです。
 悟りのある人は、天体とその法則を支配しておられるのが「神」であり、天体は、神の栄光と御手のわざを告げ知らせているだけだと、理解するはずです。

 神ご自身も、もちろん、ご自分のわざを大声で叫び知らせたりなさいません。
 ただ、天体の法則の中で、太陽や月の歩みの下で生活している人間は、その現象の中で、沈黙の神の呼び声を聞くのです。

 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
 そのことばは、地の果てまで届いた。
 神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。(4節)
 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。
 勇士のように、その走路を喜び走る。(5節)
 その上るのは、天の果てから、
 行き巡るのは、天の果て果てまで。
 その熱を、免れるものは何もない。(6節)

 古来、太陽を祀る宗教は多かったのです。太陽が地上を照らすことがすべての命のみなもとに見えますから、当然です。太陽の熱と明るさがあってこその生産活動で、人間は文明を繋いできたのです。
 太陽が上り、その軌道を通過する時、人々は喜びと感嘆の声をもって空を見上げたことでしょう。
 
★★★★★

 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、
 主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。(7節)
 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、
 主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。(8節)

 天体を見上げて、その恩恵の下で天体の意味を考えるとき、私たちは、すべてを神が支配されていることを深く認識するのではないでしょうか。

 じつは、ここにこそ、主のみおしえがあり、そのことに気づけば人は「生き返り」、その神のあかしは、「弁えのない者でさえ賢くする」というのです。
 つづいて語られる、主の戒め、主の仰せを知るとき、人がどれほど満たされるか、ダビデは気が付く人だったのです。

 主への恐れはきよく、
 とこしえまでも変わらない。
 主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。(9節)
 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。
 蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。(10節)
 また、それによって、あなたのしもべは
 戒めを受ける。
 それを守れば、報いは大きい。(11節)

 苦難の中にある時も、空を見上げて、主への恐れを思い、主のまことのさばきを受け止めるダビデには、そのような厳格な天(神)の法則は希望だったにちがいありません。神の戒めは、もちろん、天にだけでなく自分自身にも及ぶことを歌えるダビデは、それゆえ、神に大きな希望を託すことができたのでしょう。

★★★★★

 だれが自分の数々のあやまちを
 悟ることができましょう。
 どうか、隠れている私の罪をお赦しください。(12節)
 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。
 それらが私を支配しませんように。そうすれば、
 私は全き者となり、
 大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。(13節)
 私の口のことばと、私の心の思いとが
 御前に、受け入れられますように。
 わが岩、わが贖い主、主よ。

 地上を明るく照らし出す太陽、その太陽さえ支配しておられる全能の神、その神の光は、太陽が造りだす影さえも、明るみに出します。
 同様に、私たちが気が付かない自分の罪も、神の光の下では隠れることができないはずです。自分の罪に気が付かない時、私たちは傲慢の罪に陥っていると言えます。ですから、ダビデは神に顔を上げ、神の光の中に自分が照らし出されることを願っているのではないでしょうか。

 そうすれば、傲慢の罪に陥らずに済みます。傲慢の罪に支配されることがなくなってはじめて、私たちは「全き者」「きよい者」となるのでしょう。
 きよさがなくては、神に受け入れられない。これは、イスラエルの民が出エジプトで、神に救い出された直後からの、神の戒めの原則でもあります。
 とうぜん、ダビデは、そのような神の前に、恐れをもつことができる人でした。






posted by さとうまさこ at 10:12| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする