2015年05月01日

Coffee Break・詩編25 主よ。王をお救いください。(詩編20篇1節〜9節)



 詩編20篇は、民が神に、王の執り成しを願った歌です。王が戦いに出るときには、ささげ物をし、レビ人と会衆が声を合わせて歌った(新実用聖書注解・いのちのことば社)ようです。
 戦さは命がけなのです。王が負ければ、民の暮らしも安全もおびやかされます。民が一致して、王の勝利を神に祈るのは当然です。

指揮者のために。ダビデの賛歌
 苦難の日に
 主があなたにお答えになりますように。
 ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。(詩編20章1節)
 主が聖所から、あなたに助けを送り、
 シオンから、あなたをささえられますように。(2節)
 あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、
 あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。   セラ(3節)

 ヤコブの神は、聖書の神の呼び方の一つです。聖書の神は、創世記の時代に、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれますが、ヤコブが神からイスラエルという名前をいただいて以来、イスラエルの神とも呼ばれています。(創世記32章28節) シオンはエルサレムのことです。ここから想起できるのは、神の宮で穀物のささげ物と全焼のいけにえをささげる王と民の姿です。(実際には大祭司がささげるのですが)
 
 主があなたの願いどおりに
 してくださいますように。
 あなたのすべてのはかりごとを
 遂げさせてくださいますように。(4節)
 私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。
 私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。
 主があなたの願いのすべてを
 遂げさせてくださいますように。(5節)

 これは、礼拝の形を取った出陣式とも言えるでしょう。戦さの勝敗が「時の運」というのは、戦記物などでも語られるところです。どれほど準備をし、どれほど精鋭の兵士を集めても絶対に勝利が取れる保障はないのです。とくに、聖書では、勝ち戦はすべて、「神の戦い」と言っても過言ではありません。「主の御名」こそ、イスラエルの旗印なのです。

★★★★★

 今こそ、私は知る。
 主は、油をそそがれた者を、お救いになる。
 主は、右の手の救いの力をもって
 聖なる天から、お答えになる。(6節)
 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。
 しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(7節)
 彼らは、ひざをつき、そして倒れた。
 しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。(8節)

 まだ、軍備などもっていなかったイスラエルの民がエジプトから脱出する時、エジプト王パロは戦車で民を追いかけて来ました。エジプトは馬と戦車を誇る強大な国でしたが、彼らは難民同然のイスラエル人を打ち負かすことができなかったのです。有名な葦の海の奇蹟は、主が味方をしてくださるときの信じがたい勝利を語っています。(出エジプト記14章)
 ダビデの民や兵士が戦いに望んで恃(たの)むべきは、軍備より主であると歌うのは当然でした。ダビデが勝利を重ねた結果、ダビデ王朝がイスラエルの歴史に燦然と輝く王国を築き上げたのです。

 主よ。王をお救いください。
 私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。(9節)






posted by さとうまさこ at 09:23| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月02日

Coffee Break詩編・26 まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう(詩編21篇1節〜13節)



 詩編21篇は、20篇と対になっています。20篇がとりなしの詩篇で21篇は感謝の詩篇です。ダビデがこのような感謝の祈りの手本を作ったと考えられているようです。(新実用聖書辞典・いのちのことば社)
 出陣に臨んで、イスラエルの民の総力を挙げてとりなしの祈りをささげ、主に勝利を願いました。そして、こんどは、勝利を手にして凱旋することができたのです。

 指揮者のために。ダビデの賛歌
 主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。
 あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。(詩編21篇1節)
 あなたは彼の心の願いをかなえ、
 彼のくちびるの願いを、退けられません。   セラ(2節)

 願った祈りが叶えられるほど感謝なことはありません。私たちの体験では、人間の目で見る限り、願いや祈りがそのとおり聞かれる場面ばかりではありません。祈りの中で、神のお答えがさまざまであることを体験します。ある宣教師は説教の中で、答えは、「OK」「NO」「WAIT」だと話されました。
 けれども、イエス様は「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコの福音書11章24節)と仰せになったのです。
 そうであるなら、私たちは、願う祈りをすると同時に、感謝のいのりを準備しておく、いえ、感謝の祈りをささげるのは当然ですね。

★★★★★

 あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、
 彼のかしらに純金の冠を置かれます(3節)。
 彼はあなたに、いのちを請い求めました。
 あなたは彼に、
 とこしえまでの長い日々を与えられました。(4節)
 御救いによって彼の栄光は、大きい。
 あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。(5節)
 あなたは、とこしえに彼を祝福し、
 御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。(6節)

 勝利を手にして凱旋してきた王ほど「輝かしい」存在はないでしょう。彼は(神によって)頭に純金の冠を、置いていただいているのです。彼の尊厳と威光はいや増し、主によってとこしえに祝福されているその姿を、王も民も喜ぶのです。

 まことに、王は主に信頼し、
 いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。(7節)

 「恵み」は私たちの側に、なんらの功績があって与えられるものではありません。受けるに値しない私たちに、神が一方的に下さる恩寵です。ダビデといえども、その勝利は、彼の「功績」の結果ではありません。彼はただ、主に信頼しただけなのです。かならず、勝利をさせてくださると、先に感謝の祈りを準備するほどの信頼こそ、神に対する私たちの「義なる態度」であると、この詩編は語っているようです。

★★★★★

 あなたの手は、あなたのすべての敵を見つけ出し、
 あなたの右の手は、あなたを憎む者どもを
 見つけ出します。(8節)
 あなたの御怒りのとき、
 彼らを、燃える炉のようにされましょう。
 主は御怒りによって彼らをのみ尽くし、
 火は彼らを食い尽くすでしょう。(9節)
 あなたは、地の上から、
 彼らのすえを滅ぼされましょう。
 また、人の子らの中から、彼らの子孫をも。(10節)
 彼らが、あなたに対して悪を企て、
 たくらみを設けたとしても、
 彼らには、できません。(11節)
 あなたは彼らが背を見せるようにし、
 弓弦を張って彼らの顔をねらわれるでしょう。(12節)

 注意するべきことがあります。神がこのように「あなたの敵」を滅ぼして下さるのは、ダビデが主によって選ばれ、用いられている「神のしもべ」であることです。ダビデの戦さが、神の御心にかなっているという事実です。それは、ダビデが「神の救いのご計画」に沿って、その働きを忠実に執行しているゆえのあらわされた神の御業です。
 神は、意味なく、御怒りによって彼らをのみ尽くしたり、火は彼らを食い尽くしたり、弓弦を張って彼らの顔をねらわれたりなさらないということを、私たちは知っていなければならないと思います。
 功績のない者に恵みを下さる主であるゆえに、私たちは次のように歌えるのではないでしょうか。

 主よ。御力のゆえに、
 あなたがあがめられますように。
 私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。(13節)

 「何事でも神のみこころにかなうことをわたしたちが願うなら、神はその願いを聞いてくださるということ。これこそ神に対するわたしたちの確信です」。(ヨハネの手紙5章14節)









posted by さとうまさこ at 10:13| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月04日

Coffee Break詩編・27 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。(詩編22篇1節〜10節)



指揮者のために。「暁の雌鹿」の
調べに合わせて。ダビデの賛歌

 わが神、わが神。
 どうして、私をお見捨てになったのですか。
 私のうめきのことばにも。(詩編22章1節)

 この箇所はイエス様が十字架にかかって息を引き取られるとき、口にした言葉というので有名です。(マタイの福音書27章46節)
 詩編全体をメシヤ預言だとする見解もあるようですが、とくに詩編22は、イエス様の最期の場面と重なると読める箇所がほかにもあり、キリストの最期を預言したと考えるのです。
 さとう自身は、あくまでダビデが、その生涯の困難の時に主を求めた詩であり、結果的に、そこに救い主預言が現れたと見たいのです。

「ここでの見捨てるは原語(ヘブル語、アラム語)によると、神が離れていなくなるという意味ではなく、近くにおられても手を出さない。助けないということである」(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 
★★★★★

 わが神。昼、私は呼びます。
 しかし、あなたはお答えになりません。
 夜も、私は黙っていられません。(2節)

 ダビデがサウルの追及の手を逃れて荒野をさまよっているとき、彼は文字通り昼も夜も神を呼び求めたでしょう。助けてほしいから「改めて」祈るのではなく、黙ってはいられない、それほど、神の存在はダビデにとって切実なのです。
 
 けれども、あなたは聖であられ、
 イスラエルの賛美を住まいとしておられます。(3節)
 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。
 彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。(4節)
 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。
 彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。(5節)

 「聖」の意味には、神の義も含まれます。神は、神様の目からご覧になって「義(ただ)しい人」、神様に対して「義(ただ)しくあろうとする人」をお喜びになる方なのです。神様とイスラエルとの信頼関係は、神の国の歴史を通じて、形成されてきたものです。アブラハムもイサクもヤコブも神様によって助け出される体験をしました。エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、言うに及ばずです。神様は、大きなしるしと不思議を現わされて、大変な犠牲を払って彼らをエジプトの奴隷の境涯から助けだされたのです。3節4節5節に三回「信頼」が繰り返されていることに注目です。私たちが祈るのは、すでに神を信頼しているからですね。それは、すでに救い出された経験による「信頼」に基づいています。

 信頼関係のない相手に、「お願いする」ことができるでしょうか。裸になって、心の中までむき出しにして、「助けてください」とひれ伏すことができるでしょうか。人間同士ならこれは、一つの賭けです。相手が憐れんで助けてくれることもないわけではないでしょう。しかし、その弱さゆえに命を取られるかもしれません。人間同士では、親子でさえ「絶対」はあり得ないのです。けれども、イスラエルとイスラエルの神との関係は深い信頼で築き上げられてきているのです。

★★★★★

 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。
 人のそしり、民のさげすみです。(6節)
 私を見る者はみな、私をあざけります。
 彼らは口をとがらせ、頭を振ります。(7節)
 「主に身を任せよ。
 彼が助け出したらよい。
 彼に救い出させよ。
 彼のお気に入りなのだから。」(8節)

 ここも、イエス様の十字架刑の場面に使われています。(マタイの福音書27章43節)
 イスラエルの王となる方と期待した民衆は、手に平を返したように、十字架上で瀕死のキリストをあざけったのです。

 ダビデは、ゴリヤテに勝利した後、イスラエルの英雄となり、王の婿となり、将軍にもなりました。その絶頂から滑り落ちたとき、ダビデは人の心の豹変ぶりに痛む思いだったでしょう。
 ほんとうに信頼できる方は、神だけであることを痛感したのです。それは、イスラエルの歴史においての神とイスラエルとの関係のためだけではありません。

 ダビデその人の個人史においてもそのとおりなのです。生まれてくると言う不思議は、だれでも、ちょっと考えれば神様の御手によるとわかることですが、ダビデはとくにイスラエル王国を立てるために神が備えられた器だったのです。

 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。
 母の乳房に拠り頼ませた方。(9節)
 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。
 母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。(10節)







posted by さとうまさこ at 08:38| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月05日

Coffee Break詩編・28 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。(詩編22篇11節〜18節)



 ほんとうに「神様が遠く離れてしまわれた」と思うことがあります。クリスチャンは毎日祈りますし、必要な時には祈りの密度も濃くなり、回数も多くなるでしょう。ところが、困難が去らないばかりか、さらに困難に取り囲まれている時があるのです。
 一介の小市民である私でさえそのような中で、追いつめられた気がするときがあるのです。イスラエルの王サウルから追われているダビデを取り囲む困難は、具体的で、はかり知れないものだったでしょう。

 どうか、遠く離れないでください。
 苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。(詩編22篇11節)
 数多い雄牛が、私を取り囲み、
 バシャンの強いものが、私を囲みました。(12節)
 彼らは私に向かって、その口を開きました。
 引き裂き、ほえたける獅子のように。(13節)

 雄牛もパシャンの強いものの比喩として使われています。パシャンとはヨルダン川の東側の肥沃な土地(民数記21章33節)のことですから、当然そこに住む民は強いのです。敵の口を、「引き裂き、吠えたける獅子のように」とさらに、強いものにたとえています。敵がどんどん恐ろしく、手ごわいものになって行く様子がよくわかります。
 絶体絶命の恐怖の中で、人の心が押しつぶされていく様子がさらにさまざまな譬えを使って描かれています。

 私は、水のように注ぎ出され、
 私の骨々はみな、はずれました。
 私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。(14節)
 
 「水のように」は、力が失われていくたとえです。骨がはずされることは、敗北を意味します。

 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、
 私の舌は、上あごにくっついています。
 あなたは私を死のちりの上に置かれます。(15節)

 渇きもまた、行き詰まって死に瀕しているたとえとしてよく使われています。

 犬どもが私を取り囲み、
 悪者どもの群れが、私を取り巻き、
 私の手足を引き裂きました。(16節)

 犬はイスラエル人のもっとも軽蔑する生き物のひとつです。男娼が犬にたとえれているくらいです。、

 私は、私の骨を、みな数えることができます。
 彼らは私をながめ、私を見ています。(17節)

★★★★★

 彼らは私の着物を互いに分け合い、
 私の一つの着物を、くじ引きにします。(18節)

 敵によって滅びを運命付けられて、敗北していく様子が容赦なく述べられているのです。
 すでに、敵によって手足を引き裂かれ、骨がばらばらになっているなどと言うのは、「死」を意味していると思うのですが、ここでの「私」は、ばらばらになった自分の骨を数えることができ、しかも、自分を攻撃している敵の様子を観察しているのです。
 敵は犠牲者の着物を分け合い、くじ引きしてまで分け合っているのです。半死半生の人間のかたわらで、その着物をはぎ取り分け合っているなんて、まさに悪魔のしわざです。
ここでのくじは、単に分配のための手段と言うより、「遊び」が感じられないでしょうか。
 人の死の機会さえもてあそぶこのような箇所は、ぞっとするほどシュールで恐ろしい光景です。

 この光景と同じことが何と、イエス・キリストの十字架刑の時に再現されるのです。(マタイの福音書27章35節) 
 ここにも、詩編がメシヤ預言だと言われる根拠が記されているのです。






posted by さとうまさこ at 09:46| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月06日

Coffee Break詩編・29 主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。 (詩編22篇19節〜31節)



 主よ。あなたは、遠く離れないでください。
 私の力よ、急いで私を助けてください。(詩編22篇19節)
 私のたましいを、剣から救い出してください。
 私のいのちを、犬の手から。(20節)
 私を救ってください。
 獅子の口から、野牛の角から。
 あなたは私に答えてくださいます。(21節)

 詩編22篇は前半と後半ではっきりとその色調を変えています。前半は、必死に主の助けを呼び求めています。「遠く離れてお救いにならないのですか。」とまで、言うのです。
 子供の情景に置き換えれば、助けが必要な子供が親を呼び、火のついたように叫び求めている姿です。
 前半と後半を分けるのが21節でしょう。詩人は激しく神を呼び求めながら、少し手ごたえを得ているのです。神のお答えが聞こえたのでしょう。
 神のお答えを聞いたなら、それを人に告げないではいられません。神のお答えに対して賛美の気持ちがわき上がるのは当然です。

 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、
 会衆の中で、あなたを賛美しましょう。(22節)

 そこで、23篇からは一転賛美の歌に変わります。

 主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。
 ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。
 イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。(23節)

 賛美が三種類並んでいるのは、興味深いことだと思います。賛美の中には、主をあがめることと、主に対しておののく気持ちがなければなりません。私たちが神をほめたたえるのは、主がたんなる賞賛の対象ではなく、恐れるに足りる方だからでしょう。
 ちなみに新聖書辞典・いのちのことば社は、聖書の中の恐れを三つ紹介しています。
 第一は、人間が被造物として、創造者に対して当然持つべき畏敬の念。きよい恐れ。
 第二は、罪の奴隷としての恐れ。第三は、人を恐れる恐れで、権威ある人の恐れや、人が人に感じる恐れ。
 
23節の冒頭に出てくる恐れは、第一と第二の恐れです。相手が創造者であること、自分が神の前に罪びとで正しくありえないという認識こそ、賛美の前提です。

 まことに、主は悩む者の悩みを
 さげすむことなく、いとうことなく、
 御顔を隠されもしなかった。
 むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、
 聞いてくださった。(24節)

 私たちは罪びとなのですから、私たちが苦しむ姿を見て、神からさげすまれても仕方のないことかもしれません。人間同士なら言いかねません。「それ見ろ。蒔いた種を刈り取ることになるのだ」「天に唾をするから、それが自分の顔に帰って来ただけだ」
 けれども、神は、激しく呼び求める人をあわれんでくださるのです。御顔を隠されることのなく、願いを聞いて下さったのです。
 賛美しないでいられるでしょうか。

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 大会衆の中での私の賛美は
 あなたから出たものです。
 私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。(25節)
 悩む者は、食べて、満ち足り、
 主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。
 あなたがたの心が、いつまでも生きるように。(26節)

 賛美をすることは、ですから、それ自体証しになっているとも言えます。神がお答え下さったとの体験なしに、救い出されたといえる喜びなしに、心からの賛美をすることなどできるはずもないからです。

 地の果て果てもみな、思い起こし、
 主に帰って来るでしょう。
 また、国々の民もみな、
 あなたの御前で伏し拝みましょう。(27節)

 イスラエルの民の賛美は、同時に多くの国々に伝わり、多くの人々を揺り動かし、その結果、外国人や豊かな人、貧しい人たちまで、主の前に来て伏し拝むというのです。

 まことに、王権は主のもの。
 主は、国々を統べ治めておられる。(28節)
 地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、
 ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。
 おのれのいのちを保つことのできない人も。(29節)
 子孫たちも主に仕え、
 主のことが、次の世代に語り告げられよう。(30節)
 彼らは来て、主のなされた義を、
 生まれてくる民に告げ知らせよう。(31節)


 さらに、賛美をしている人たちの子孫、新たに主に従うことになった人々の子孫も、主を知り、主の義をさらなる子孫に告げ知らせるのです。
 これは福音が全世界に広がっている今日の時代を思わせます。まさに、このようなところからも、詩編が「メシヤ預言」だと言われるのでしょう。






posted by さとうまさこ at 09:38| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする