2015年08月01日

Coffee Break詩編・113 幾たび彼らは、荒野で神に逆らい、荒れ地で神を悲しませたことか。(詩編78篇38節〜54節)



 しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、
 滅ぼさず、幾度も怒りを押え、
 憤りのすべてをかき立てられはしなかった。(詩編78篇38節)
 神は、彼らが肉にすぎず、
 吹き去れば、返って来ない風であることを
 心に留めてくださった。(39節)

 幾たび彼らは、荒野で神に逆らい、
 荒れ地で神を悲しませたことか。(40節)
 彼らはくり返して、神を試み、
 イスラエルの聖なる方を痛めた。(41節)
 彼らは神の力をも、
 神が敵から贖い出してくださった日をも、
 覚えてはいなかった。(42節)
 神が、エジプトでしるしを、
 ツォアンの野で奇蹟を行なわれたことを。(43節)

 出エジプト記は、神がイスラエルの民を「贖って」「救い出された」物語です。その意味では、新約の民である現代の私たちが救われるときの、「贖い」と「救い」は、出エジプトになぞらえられることがあります。
 神の渾身の犠牲――ふしぎとしるし――は、イエス様の十字架とも考えられます。

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 神がそこの川を血に変えられたので、
 その流れを飲むことができなかった。(44節)
 神は彼らに、あぶの群れを送って彼らを食わせ、
 かえるを送って彼らを滅ぼされた。(45節)
 また、彼らの作物を、油虫に、
 彼らの勤労の実を、いなごに与えられた。(46節)
 神は、雹で、彼らのぶどうの木を、
 いなずまで、彼らのいちじく桑の木を滅ぼされた。(47節)
 神は、彼らの家畜を、雹に、
 彼らの家畜の群れを、疫病に渡された。(48節)
 神は、彼らの上に、燃える怒りと激しい怒り、
 憤りと苦しみ、
 それに、わざわいの御使いの群れを送られた。(49節)
 神は御怒りのために道をならし、
 彼らのたましいに死を免れさせず、
 彼らのいのちを疫病に渡された。(50節)
 また、エジプトのすべての初子、
 ハムの天幕の彼らの力の初めの子らを
 打ち殺された。(51節)

 出エジプト時の十の奇蹟ですね。
 神の奇蹟や不思議は、二つの面から見ないといけないのではないでしょうか。

 神にとって、ナイルの水を血に変えることをはじめとする奇蹟の数々は、難しいことではないでしょう。天地万物をお造りになることができる神には、不可能はないのですから。けれども、神は、同時に、犠牲となったエジプトの人々や疫病で死んだ家畜や人間、イスラエルを助け出すためにパロが犠牲になることを、「喜んで」そうされたわけではないはずです。たとえ、ハエ一匹でも神は、ご自分がお造りになったものが無残に潰されるのを、楽しんだりされるでしょうか。

 もともとエデンの園では、動物同士が敵対することはなかったはずです。イザヤ書11章に書かれているように、「狼は子羊とともに宿り」「ひょうは子やぎとともに伏し」「乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」世界が、神様のお造りになった「天」でした。
 ですから、神が人の救いのために、人を滅ぼさなければならない時、誰よりも痛んでおられるのは、神だと思うのです。

 イスラエルの民は、しばしば自分たちを救い出すために神が行なって下さったみわざを忘れます。それは、神が自分のお造りになったものをあえて犠牲にして、あえてイスラエルを選んで下さったということを忘れることでした。

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 しかし神は、ご自分の民を、
 羊の群れのように連れ出し、
 家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた。(52節)
 彼らを安らかに導かれたので、彼らは恐れなかった。
 彼らの敵は、海が包んでしまった。(53節)
 こうして神は、ご自分の聖なる国、
 右の御手で造られたこの山に、
 彼らを連れて行かれた。(54節)

 神はシナイ山で、イスラエルと契約を結んでくださいました。同様に、私たちは、イエス様の十字架を代価として契約を結んでいただきました。
 共通するのは、神との契約は血の犠牲のもとに成立したことではないでしょうか。
 自分が救われるために、血が流されたという事実を忘れてはいけないと改めて思うのです。







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2015年08月02日

Coffee Break詩編・114 イスラエルの苦難・神はまた、御民を剣に渡し、(詩編78篇 55節〜64節)



 神はまた、彼らの前から国々を追い出し、
 その地を相続地として彼らに分け与え、
 イスラエルの諸族をおのおのの天幕に住まわせた。(詩編78篇55節)

 シナイ契約とともに成立した国家は、神聖政治国家イスラエルでした。しかし、この時、この国家には、領土がありませんでした。
 今日の常識では、国家とは、まず領土があって、その中に住む人がいて、それらを支配し、まとめ、保護する権力=主権があるものです。でも、シナイで成立した神聖政治国家では、まだ領土がありませんでした。民はいましたが、奴隷状態を脱したばかりのイスラエルの民には、神聖政治国家としての民の自覚も、まだ未熟でした。ですから、飢えや渇きに対して、すぐにリーダーのモーセに詰め寄り、目的地カナンに向かうのだという神の御命令、かならずカナンを勝ち取るのだという確信にもすぐに迷いが生じるのでした。

 しかし、神の強力な後押しのなかで、ヨシュア率いるイスラエルは、ヨルダン川を渡り、異邦人からカナンの地を勝ち取って、十二部族がそれぞれに相続地を得たのです。

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 それなのに、彼らはいと高き神を試み、
 神に逆らって、神のさとしを守らず、(56節)
 もとに戻って、
 彼らの先祖たちのように裏切りをし、
 たるんだ弓の矢のようにそれてしまった。(57節)
 また彼らは、高き所を築いて神の怒りを引き起こし、
 刻んだ像で、神のねたみを引き起こした。(58節)
 神は、聞いて激しく怒り、
 イスラエルを全く捨てられた。(59節)
 それで、シロの御住まい、
 人々の中にお建てになったその幕屋を見放し、(60節)
 御力をとりこに、御栄えを敵の手に、ゆだねられた。(61節)
 神はまた、御民を剣に渡し、
 ご自分のものである民に対して激しく怒られた。(62節)
 火はその若い男たちを食い尽くし、
 その若い女たちは婚姻の歌を歌わなかった。(63節)
 その祭司たちは剣に倒れ、
 やもめたちは泣き悲しむこともできなかった。(64節)

 残念ながら、カナンに入植したイスラエルの民が、神の御命令を行ったのは、「ヨシュアが生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えた」(ヨシュア記24章31節)だけでした。

 士師記に書かれているさまざまな困難、イスラエルにふりかかる異邦人の攻撃は、聖書に明らかです。まさに、士師時代のイスラエルは、自分たちを救い出してくださった神を忘れ、偶像礼拝を行い、堕落していったのです。「そのころ、イスラエルにはがなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師記17章6節、同21章25節)だったからです。
 その結果、当然、神の祝福を失いました。

 士師記で書かれている「王」は、後に来るダビデ王朝の王でもありますが、同時に、神の国の真の王、神・主を指していると、さとうは思います。






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2015年08月03日

Coffee Break詩編・115 主はまた、しもべダビデを選び、(詩編78篇65節〜72節)



 神を忘れた人々の様々な身勝手が記される士師記ですが、その最後は、じつに悲惨です。一人のレビ人のそばめが、旅の途中ベニヤミンの領地でなぶり殺しにあうという事件(士師記19章)を発端に、イスラエルのすべての民と、ベニヤミン族が戦いを始めるのです。
 その結果、敗北したベニヤミン人はわずか六百人を残すばかりとなり、滅亡寸前になりました。(同20章47節)
 イスラエルの名門ベニヤミンの絶滅を目の前にした、イスラエルの他の者たちは。残りの男たちに妻を娶らせてふたたびベニヤミン族を復興させることを考えました。 
 しかし、自分たちはベニヤミンに自分の娘を嫁がせないと誓ってしまったので、シロの祭りの時に、娘たちを略奪するようそそのかせるのです。(同21章18節〜24節)
 その結果、は、イスラエルの民をお捨てになるのです。(詩編78篇59節〜64節)

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 もちろん、主がイスラエルの民を、捨てたままにしておかれることはありません。
 一度選びの民としていつくしんでこられたイスラエルを、主はお忘れになることなどありえないからです。

 そのとき主は眠りから目をさまされた。
 酒に酔った勇士がさめたように。(詩編78篇65節)
 その敵を打ち退け、
 彼らに永遠のそしりを与えられた。(66節)

 神は、結局は、イスラエルのために戦って下さるのです。士師時代の末期には、大預言者サムエルを起こされ、その口に「一つとして落とされることはなかった」と言われる預言をお授けになって、イスラエルをペリシテ人の手から救い出されるのです。(Tサムエル記3章19節)
 ただし、ベニヤミンとは兄弟であったヨセフ族の一つ、エフライムは退けられてしまいます。
 一度はイスラエルの王としてベニヤミン族のサウルが選ばれたのですが、彼も不信仰な振る舞いから退けられ、王冠は、神の指図に従ってユダ族のダビデの頭に置かれるのです。

 それで、ヨセフの天幕を捨て、
 エフライム族をお選びにならず、(67節)
 ユダ族を選び、
 主が愛されたシオンの山を、選ばれた。(68節)

 シオンをエブス人から奪い取ったダビデは、そこをエルサレムとして、幕屋を置き、王の家も置いたのです。
 それは、ダビデの実力や策略であった以上に、主のみむねをダビデが果たしたということになるのでしょう。(Uサムエル記5章7節)

 主はその聖所を、高い天のように、
 ご自分が永遠に基を据えた堅い地のように、
 お建てになった。(69節)
 主はまた、しもべダビデを選び、
 羊のおりから彼を召し、(70節)
 乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、
 御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを
 牧するようにされた。(71節)
 彼は、正しい心で彼らを牧し、
 英知の手で彼らを導いた。(72節)

 しもべダビデの家から、やがて救い主が誕生するのです。まことに、神の愛は深いと思わせられます。







posted by さとうまさこ at 09:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月04日

Coffee Break詩編・116 主よ。いつまででしょうか。(詩編79篇1節〜8節)



 主が油を注いでイスラエルの王とされたダビデは、曲折があったものの、イスラエルを統一しその王となりました。エルサレムに神の箱をお迎えし、外国との戦争にも勝ち続けて、イスラエルを強力な王国に仕上げました。その子、ソロモンは七年を費やして神殿を建設し、十三年をかけてりっぱな王宮を建てました。
 ソロモンの時代には、イスラエルはかつてないほど支配地域を広げ、空前絶後の背泳を謳歌しました。ダビデの王国は、永遠に不滅に見えたのです。
 
 ところが、ソロモンの後継者レハブアムの時に、王朝が北イスラエルと南ユダに分裂すすると、まず北王国で偶像礼拝がはびこり、やがては南ユダにも不信仰が広がって、イスラエルそのものが衰退していきます。
 そこを、台頭してきたアッシリヤやバビロンに攻められ、国は崩壊し、王から民に至るまで捕囚に連れ去られ、神殿は破壊されて、イスラエルは跡形もなくなってしまうのです。

 しかし、そのような絶望的な状況の中にも、神は働いておられたのです。

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 アサフの賛歌
 神よ。国々は、ご自身のものである地に侵入し、
 あなたの聖なる宮をけがし、
 エルサレムを廃墟としました。(詩編79篇1節)
 彼らは、あなたのしもべたちのしかばねを
 空の鳥のえじきとし、
 あなたの聖徒たちの肉を野の獣に与え、(2節)
 聖徒たちの血を、エルサレムの回りに、
 水のように注ぎ出しました。
 彼らを葬る者もいません。(3節)
 私たちは隣人のそしりとなり、
 回りの者のあざけりとなり、
 笑いぐさとなりました。(4節)

 外国に侵略されて、エルサレムの神殿が壊され、国が崩壊することは、イスラエルにとって息の根を止められるほどのことだったでしょう。
 イスラエルは神聖政治国家だったのです。イスラエルは「神の選びの民」だったのです。神はかつて、アッシリヤの十八万五千人の兵士を一晩で葬ってイスラエルに勝利を下さいました。エリヤやエリシャをはじめ、多くの預言者を起こして、不信仰な北王国の王たちに警告を与え、アラムから救いました。また、アハブ・イゼベラのような悪王夫婦を罰せられました。
 しかし、最終的に、主は北王国を見限り、イスラエルをアッシリヤに渡しました。(U列王記17章23節)
 北王国が崩壊した百五十年ほど後には、ユダ王国もバビロンに滅ぼされたのです。
神が、イスラエルを見捨てられたと思った者も多かったに違いありません。

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 苦難の中にある時、「いつまでですか」と聞きたいのは自然です。
 救いが完成した後の生まれ、信仰をもっている「新約の民」でさえ、つい、「いつまでですか」と訊ねるかも知れません。
 
 主よ。いつまででしょうか。
 あなたは、いつまでもお怒りなのでしょうか。
 いつまで、あなたのねたみは
 火のように燃えるのでしょうか。(5節)
 どうか、あなたを知らない国々に、
 御名を呼び求めない王国の上に、
 あなたの激しい憤りを注ぎ出してください。(6節)
 彼らはヤコブを食い尽くし、
 その住む所を荒らしたからです。(7節)
 先祖たちの咎を、
 私たちのものとして、思い出さないでください。
 あなたのあわれみが、すみやかに、
 私たちを迎えますように。
 私たちは、ひどくおとしめられていますから。(8節)

 敵に鉄槌を降して下さるようにと願うのは、「敵を愛し、敵のために祈りなさい」と命じられている新約の民には、ちょっと後ろめたいのです。けれども、イエス様の教えをすべて実行できる人などいないのは、だれよりも主ご自身がご存知なのではないでしょうか。
 まして、まだ、救い主の到来を知らないアサフが、絶望的な状況で、それでも、神を求めたことは、正しい態度だったのかもしれません。





posted by さとうまさこ at 09:29| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月05日

Coffee Break詩編・117 主よ。あなたをそしった、そのそしりの七倍を、私たちの隣人らの胸に返してください。(詩編79篇9節〜13節)



 詩編は聖書の中で、日本人が特に好きな文書だそうです。ほんとうかどうか、外国人クリスチャンととくに接触があるわけではない私には、確かめるすべもないのです。けれども、新約聖書にも、特に詩編だけが旧約聖書から収録されていたりします。
 イザヤ書が神から人への言葉だとしたら、詩編は人から神への「訴え」です。賛美歌集である詩編をあえて、「訴え」と表現したのは、さとうの主観です。
 賛美は本来、神を見上げてほめたたえるものです。神様は、無条件に、ほめたた得られるべきお方です。
現在私たちが礼拝の時に歌っている賛美は、ほとんど「賛美」が前面に出ています。
 けれども、私(たち)は弱い者ですから、神様の前に出た時こそ、泣き出したくなるのです。幼子が、親の顔を見たとたん、すがりついて振り返り、いじめっ子を指さして、「●●ちゃんが叩いた。」と、親にお仕置きを訴えるようなレベルのお願いもしてしまうのです。

 私たちの救いの神よ。
 御名の栄光のために、私たちを助けてください。
 御名のために、
 私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。(詩編39編9節)
 なぜ、国々は、
 「彼らの神はどこにいるのか。」と言うのでしょう。
 あなたのしもべたちの、流された血の復讐が、
 私たちの目の前で、国々に思い知らされますように。(10節)

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 旧約聖書を読むと、イスラエルの民は、国が崩壊して行く中で過酷な試練に遭っているのです。まあ、振りかえれば、奴隷であった民が神の後ろ楯でエジプトを出て来て、やっと約束の地カナンに入り、国を建てるのです。創造主なるヤーウエの肝煎りだとはいえ、この神を崇め、この神だけを純粋に崇め、拝む集団は、中東全体で見るととても小さくて弱かったのです。ですから、カナン入りした後も、のんびりと平和をむさぼるような時期はほとんどありません。国が安定繁栄していたのは、ダビデ、ソロモンの時代だけと言っても過言ではないでしょう。

 さいわい、イスラエルにはどんなときにも彼らを支える誇りがあったはずです。それは、彼等が「神に選ばれた民」だということです。じっさいには、神を忘れ、神に背く行いをすることも多かったのですが、それでも、彼等は自分たちが「選びの民」だということを疑わなかったと思います。まさか、国が崩壊し、民がちりぢりになって異教徒の国へ連れ去られるとは夢にも思わなかったはずです。
そのショックと絶望は、どれほどのものだったでしょう。

 捕われ人のうめきが御前に届きますように。
 あなたの偉大な力によって、
 死に定められた人々を
 生きながらえさせてください。(11節)

 敵に、「彼らの神はどこにいるのか。」と言われることは、なによりも屈辱だったでしょう。自分が一番感じていることを、自分が一番骨身にしみて痛んでいるところを、敵から指摘されあざ笑われるほど悔しいことがあるでしょうか。

 主よ。あなたをそしった、そのそしりの七倍を、
 私たちの隣人らの胸に返してください。(12節)

 仕返しそのものが訴えになっている讃美歌は、ちょっと悲しいですが、でも、生身の人間にとって、これも神様に訴えたい重要な部分ですね。

 そうすれば、あなたの民、あなたの牧場の羊である
 私たちは、
 とこしえまでも、あなたに感謝し、
 代々限りなくあなたの誉れを語り告げましょう。(13節)







posted by さとうまさこ at 09:14| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする