2015年09月08日

Coffee Break詩編・148 見えない敵と戦ってくれる神(詩編94編11節〜17節)



 詩編94篇を読んでいて、神を「復讐の神」としてお呼びするなんて、よほど苦しい目にあっているんだとは理解できるのです。なにしろ、この詩編の背景は捕囚時代だと言われているのです。
 捕囚の民の苦しさなど、平和が続いて昭和平成の日本を生きている私などには、想像がつかないと思います。
 私の子供の頃は、まだ太平洋戦争の敗戦の記憶が生々しく、空襲や外地での戦い、捕虜生活を生々しく語る人がたくさんいました。とくに、過酷なシベリヤに抑留された人の体験談は恨みに満ちたものが多かったと思います。
 
 だれが、私のために、悪を行なう者に向かって
 立ち上がるのでしょうか。
 だれが、私のために、不法を行なう者に向かって
 堅く立つのでしょうか。(16節)
 もしも主が私の助けでなかったなら、
 私のたましいはただちに
 沈黙のうちに住んだことでしょう。(17節)

 私は捕らわれ人になったことがないので、囚人の苦しさは想像するばかりです。そして一応、もし、そんな状態だったら、信仰があるからいくらか大丈夫かなと思っています。
 次のように祈ることができるはず、だからです。

 もしも私が、
 「私の足はよろけています。」と言ったとすれば、
 主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。(18節)
 私のうちで、思い煩いが増すときに、
 あなたの慰めが、
 私のたましいを喜ばしてくださいますように。(19節)

★★★★★

 おきてにしたがって悪をたくらむ破滅の法廷が、
 あなたを仲間に加えるでしょうか。(20節)
 彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、
 罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。(21節)

 法律的な捕らわれ人にならなくても、私たちが悪者の標的になって自由を失うことは、今の時代でもあります。法には触れない範囲で善良な人の物を盗み、善良な人を破滅させようとしている人間や集団は、日々ニュース種になっています。
 信仰があれば、そのような罠に落ちそうなときにも、神がとりでとなり、避けどころの岩となってくださいますと、詩人は歌います。

 しかし主は、わがとりでとなり、
 わが神は、わが避け所の岩となられました。(22節)
 主は彼らの不義をその身に返し、
 彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。
 われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。(23節)

 悪人は、自分の悪が自分の身に帰って、自滅する、そうして下さるのは「われらの神」だというわけです。「われらの神が、彼らを滅ぼす」。
 この信仰は捕囚生活の上に希望をもたらしたに違いありません。




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2015年09月09日

Coffee Break詩編・149 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。(詩編95編1節〜6節)



 詩編95篇から詩編100篇までは、BC516年の第二神殿奉献の時に歌われたと考えられる――。(新実用聖書注解・いのちのことば社P807)

 第二神殿奉献については、U歴代誌36章22節、エズラ記6章15節に言及されています。捕囚になっていたイスラエルの民は、神のお約束のとおり、第三回バビロン捕囚(586年)から70年目にエルサレムに戻って来て自力で神殿を再建できたのです。

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 さあ、主に向かって、喜び歌おう。
 われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。(詩編95篇1節)
 感謝の歌をもって、御前に進み行き、
 賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。(2節)
 主は大いなる神であり、
 すべての神々にまさって、
 大いなる王である。(3節)

 もともと、イスラエルの王は人間の王ではなく天地の王――神でした。シナイ山での神との契約が国家の始まりでした。そうであればこそ、荒野の四十年もイスラエルという国は存在し、捕囚の民である時もイスラエルは異国で他民族に吸収消滅させられることがなかったのではないでしょうか。

 神殿は、その中に、神が御住みになる場所でないのは、ソロモンも神殿を創建したときに申し上げていることです。(T列王記8章27節)
 むしろ、はじめから、神殿は、イスラエルの民が神を国の中心に置くために、総力を上げて神を見上げるために、礼拝するためになくてはならない「建物」だったと思うのです。

 捕囚の民の身分は、支配権力や領土がないためにある意味「奴隷状態」だったでしょう。だからこそ、神殿を再建するとことは、「神の選びの民」イスラエルの、アイデンティティを取り戻した喜びがあったに違いありません。

 地の深みは主の御手のうちにあり、
 山々の頂も主のものである。(4節)
 海は主のもの。主がそれを造られた。
 陸地も主の御手が造られた。(5節)
 来たれ。
 私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。
 私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。(6節)

 再建された神殿の前で、「主の御前で、ひざまずこう」と歌う、人びとの顔が見えるようです。





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2015年09月10日

Coffee Break詩編・150 きょう、もし御声を聞くなら、(詩編95編7節〜11節)



 主は、私たちの神。
 私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。
 きょう、もし御声を聞くなら、(詩編95篇7節)

 詩編95篇は礼拝への招きと不従順に対する警告の二部から成っている。(新実用聖書注解・いのちのことば社p804)

 注解書の解説は、ときに立ち往生する頭を、すっきりと整理してくれます。というわけで、私は、聖書注解書や聖書辞典から地図、国語字典から英語辞書まで、また、本やネットでいろいろな方々の解説をかなり参考にさせていただいているのです。それで、限られた私の脳はますます混迷を深めていることも多いのですが、ともかく、感謝!です。
 
★★★★★

 さて、事実、熱烈な賛美の歌は、警告の言葉に変わります。

 メリバでのときのように、
 荒野のマサでの日のように、
 あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(8節)

 これは出エジプトの途上の出来事です。(出エジプト記17章7節)
 飢えに苦しむイスラエルの民は、シンの荒野で神からのパン・マナをいただきました。ところが、つぎの宿営地レフェディムで、水がないと言ってモーセに詰め寄ったのです。
その時に、「『主は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、主を試みた」と記されています。
 同じ過ちは二度としてはならないと戒められているのです。

 あのとき、あなたがたの先祖たちは
 すでにわたしのわざを見ておりながら、
 わたしを試み、わたしをためした。(9節)

 不信の罪を犯し続けたイスラエルの民にたいして、神は「二十歳以上の者が死に絶えるまでカナンに入れないと宣告され、その結果、イスラエル人は荒野で四十年間もさまようことになります。(民数記14章34節)

 わたしは四十年の間、
 その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。
 「彼らは、心の迷っている民だ。
 彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。(10節)
 それゆえ、わたしは怒って誓った。
 「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。(11節)

 ここでの「安息」は、相続地カナンに入ることを意味していると思います。
 捕囚から帰還した民に対しては、ふたたび、「他国に凌辱され、国や神殿が崩壊するような状態が起こりうる」との、警告でしょうか。






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2015年09月11日

Coffee Break詩編・151 まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。(詩編96編1節〜13節)



 新しい歌を主に歌え。
 全地よ。主に歌え。(詩編96篇1節)
 主に歌え。
 御名をほめたたえよ。
 日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。(2節)
 主の栄光を国々の中で語り告げよ。
 その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。(3節)
 まことに主は大いなる方、
 大いに賛美されるべき方。
 すべての神々にまさって恐れられる方だ。(4節)
 まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。
 しかし主は天をお造りになった。(5節)
 尊厳と威光は御前にあり、
 力と光栄は主の聖所にある。(6節)

 詩編96篇は、とても大きなビジョンを見上げている歌です。
 イスラエルの民が、第二神殿の前で賛美をささげているのです。捕囚から70年ぶりに、エルサレムに戻ってきた民です。彼らが、主の素晴らしさを思い起こし、ほめたたえるのは当然です。そのうえ、「御救いの良い知らせを告げよ」と歌います。
 この言葉に、ちょっと、「えっ」と思われませんか。
 「御救い」も、「よい知らせ」も、新約の民である私たちが使う言葉です。だから、この詩は、心に素直に入って来るし、このフレーズを使った賛美を歌う時、素直に心が高揚します。

 たとえば「威光 尊厳 栄誉」(新聖歌166番)と名づけられた次の賛美です。

  世界中どこででも
  新しい歌をささげよ
  主に歌え ほめたたえよ
  御救いの知らせを告げよ
  まことに主は大いなる方
  賛美されるべき方
  威光と尊厳と栄誉 光栄と力
  ただ主だけを礼拝せよ
  天をつくり 支えている主

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 国々の民の諸族よ。主にささげよ。
 栄光と力を主にささげよ。(7節)
 御名の栄光を主にささげよ。
 ささげ物を携えて、主の大庭にはいれ。(8節)
 聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。
 全地よ。主の御前に、おののけ。(9節)
 国々の中で言え。
 「主は王である。
 まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。
 主は公正をもって国々の民をさばく。」(10節)

 この讃美が、第二神殿の前で捧げられたことに、感動します。
 自分たちが、やっと捕囚から解かれて帰国し、神殿を再建できた。けれども、その時点でイスラエルは独立を果たしたわけではないのです。今で言う「政治的解放」はなかったのです。まわりには、神殿再建やイスラエル人の帰国を喜ばない異邦の民がたくさんいて、いつまた、エルサレムの城門を壊してやろうかと虎視眈々としていたはずです。
 そんな中で、イスラエルの民は、主を賛美するだけでなく、もっと大きな使命――宣教や、期待――救いをしっかりと心に留めて、それこそが、神の民として最高のささげ物であることを、見つめていたのです。
 これは、日々、神のお約束――救いに期待しながらも,なかなか宣教に踏み出せない私のような者には、心打たれる事実です。

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 天は喜び、地は、こおどりし、
 海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。(11節)
 野とその中にあるものはみな、喜び勇め。
 そのとき、森の木々もみな、
 主の御前で、喜び歌おう。(12節)
 確かに、主は来られる。
 確かに、地をさばくために来られる。
 主は、義をもって世界をさばき、
 その真実をもって国々の民をさばかれる。(13節)

 さらに、ここには主の再臨や裁きも、見据えています。
 この詩自体が、明確な「救い主預言」になっていないでしょうか。いったい誰が、どのようなまぼろしに動かされて、このような衝撃的な歌詞を書いたのかしらと、興味を覚えるのです。





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2015年09月12日

Coffee Break詩編・152 主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。(詩編97編1節〜12節)



 主は、王だ。
 地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(詩編97篇1節)
 雲と暗やみが主を取り囲み、
 義とさばきが御座の基である。(2節)
 火は御前に先立って行き
 主を取り囲む敵を焼き尽くす。(3節)

 神様に不満を持っている人の不満、無神論者の論旨は、@、神様が愛を示すべきところに愛が示されていない。A、神様が多くの不正や矛盾を放任している。ということです。

 さまざまは不平等や災害、病気にたいして、心の奥深くで神様を恨んでいる人は、案外多いのではないでしょうか。神様が愛の方だったら、こんな不公平や痛みに泣く人をなんとかして下さるはずだ。また、言います。「あんな悪い人間をどうして放置しておくのだ」
 神様がおられるなら、多くの人を殺すテロリストや粛清を行なう独裁者、突撃を命じる将軍の腕を、まずへし折ってほしい。きれいごとを言いながら人をロボット扱いするブラック企業をつぶしてほしい。

 聖書では、救い主として来られる方は、愛の神であって裁き主だと、示されています。終末の出来事で私たちを震え上がらせるのは、やはり、「神のさばき」ではないでしょうか。
 それは、じつに壮絶で、容赦のない光景です。その一つをノアの洪水に、見ることができます。もう一つは、黙示録に書かれています。(黙示録20章11節〜15節)

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 主のいなずまは世界を照らし、
 地は見て、おののく。(4節)
 山々は主の御前に、ろうのように溶けた。
 全地の主の御前に。(5節)
 天は主の義を告げ、
 すべての国々の民は主の栄光を見る。(6節)
 偶像に仕える者、
 むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見よう。
 すべての神々よ。主にひれ伏せ。(7節)

 (ノアの)洪水のさばきも、十分恐ろしいですが、根本から天地が作り変えられるとは、まさに想像を絶しています。しかもそれは、災害として起ることではないようです。毛虫が脱皮を重ねてミノムシになり、やがてそのからを破って出て来たときには美しい蝶になるように、この世界が作り変えられるとき、私たちは、神の栄光を見るのです。
 ただし、まことの神を信じていた者だけでしょう。つまり、王の王、天地の造り主、救い主を送って来られた聖書の神様です。

 「偶像や空しい者を誇りとする者は、みな恥を見よう。」
 ちょっと恥ずかしいくらいですまない恥だというのが怖いですね。

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 シオンは聞いて、喜び、
 ユダの娘たちも、こおどりしました。
 主よ。あなたのさばきのために。(8節)
 まことに主よ。
 あなたは全地の上に、すぐれて高い方。
 すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。(9節)

 主は、かならず裁いてくださるというのは、キリスト・イエスへの信頼のひとつです。
 ですから、そのときは、イスラエルの民たちも喜んで小躍りすることになるのでしょう。

 主を愛する者たちよ。悪を憎め。
 主は聖徒たちのいのちを守り、
 悪者どもの手から、彼らを救い出される。(10節)

 不正の中で、楽しく生きている人を見ると、義であることはばかげて見えることもあると思います。だからこそ、私たち主を信じる者は、この世の流れに焦って、悪の一部に加担しないようにしなければならないと、戒めているのではないでしょうか。
 神さまの光の下では、隠しおおせるものはないのです。どんな小さなシミも明るみに出てしまいます。
 その時こそ、心の直ぐな人は、喜べるのです。
 見えない善や、悪意の前に「損」をこうむったことも、全部明るみに出されるのです。

 光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。
 喜びは、心の直ぐな人のために。(11節)
 正しい者たち。主にあって喜べ。
 その聖なる御名に感謝せよ。(12節)

 ほんとうに感謝しかありませんね。


posted by さとうまさこ at 10:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする