2015年09月13日

Coffee Break詩編・153 主は、奇しいわざをなさった。(詩編98編1節〜3節)



 賛歌

 新しい歌を主に歌え。
 主は、奇しいわざをなさった。
 その右の御手と、その聖なる御腕とが、
 主に勝利をもたらしたのだ。(詩編98篇1節)
 
 「奇しいわざ」とは、「不思議としるし」です。聖書には、幾度も神の奇しいわざが記録されています。そもそもが、初めに、神が天と地を創造した(創世記1章1節)ことが奇しいわざです。

 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1章3節)

 これが奇しい出来事でなくてなんでしょう。
 ふしぎなみわざは続きます。

 神は仰せられた。「大水が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」(同6節)

 ヨイド福音教会のチョー・ヨンギ牧師は、「聖書は初めから終わりまで奇跡の話である。聖書から奇跡を取り除いたら表紙だけになってしまう」と語っています。
 聖書を読んで、最初の内、抵抗を覚えるのは、この奇跡話のオンパレードだからかもしれないと思うのです。
 奥様が先に救われた男性が、何とか奥様を理解したいと、新約聖書を読み始めた。何とか読み続けたが五千人の給食のところでとうとう座礁してしまった、と証しをしていました。結局この男性は救われて熱心なクリスチャンになるので、この最初の挫折も証しの一部なのですが、このような方は多いのではないでしょうか。

 さらに、キリスト教の救いの眼目は、キリストの刑死と復活です。刑死はとにかく復活を認めるのは、キリストが神であると認めない限り不可能です。

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 神を認めるのは、難しいことではないと思うのです。ですが、かく言う私も、神を自分の人生から除外していました。これは言葉の矛盾で、実際には、単に「放蕩息子」をしていただけのことなのです。認める認めないに関わらず、私も「神の作品」です。やがては、神の摂理の中で、神の手によって取り去られる「作品」なのです。
 今にして思えば、神を信じないと思っていた長い間、自分は、ある種の、とても狭い合理主義、実証主義の感覚で生きていた、実際の自分は全く合理的でも実証的でもないのに、そのような考え方を金科玉条としていたと気が付くのです。体重を測りたいのに、巻き尺を体の回りに、ぐるぐる回しているようなものです。水を汲みたいのに、包丁を振り上げているようなものです。

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 奇しいわざは、聖書の物語そのものですが、それがお出来になるのは、神様だからですね。
 救いは、奇しいわざの、集大成だったのですね。その上、キリストは、私のような異邦人にそれを知らせて下さって、救いを受けさせてくださった…本当に、奇しいできごとです。
 
 主は御救いを知らしめ、
 その義を国々の前に現わされた。(2節)
 主はイスラエルの家への
 恵みと真実を覚えておられる。
 地の果て果てまでもが、みな、
 われらの神の救いを見ている。(3節)







posted by さとうまさこ at 08:40| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月14日

Coffee Break詩編・154 Fさんのこと(詩編98編4節〜9節)



 九十三歳のFさんは、娘さん夫婦の家の隣に住んでいます。二つの家は庇(ひさし)を接するほどですから、文字通りスープの冷めない距離です。Fさんは、かつては食堂を経営し、四人のお子さんを立派に育てた女丈夫(ジョジョウブ――力ある女性)でした。年老いて、遠い故郷から娘さん夫婦のとなりに引っ越してきたのです。初めのうちは活発に外出して、家事もマメにやっていました。しかし、最近数年はちょっと認知症の症状が現れ家にいて、ディサービスなどに行くのが楽しみの生活になっています。

 Fさんが、自分で出来ることはだんだん少なくなってきました。時々は、思いついてガスに鍋をかけるのですが、何をするつもりだったのか忘れて、鍋を焦がしてしまいます。風呂も沸かしたまま忘れるし、下着一枚のために洗濯機をまわし、一日に五回も六回も洗濯することがあります。食事は娘夫婦のところで食べることもあり、自分のペースで食べるたいときもあるのですが、どちらにしても、もう娘夫婦が食事の世話をしているのです。
 幸い、ひとりで家の外を放浪することはなく、自分の身支度は全部自分でできるのです。

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 Fさんの日課は、一日に何十回も郵便受けを見に行くことです。Fさんの住まいも独立した家屋ですから、小さな門があり、郵便受が付いているのです。
 郵便受けには、めったに何も入っていないのです。郵便物が来なくなって久しいですし、チラシやダイレクトメールもほとんど投函されることはありません。門は植木が塞いでいて、チラシを配る人も、廃屋だと思うのかもしれません。
 でも、 雨が降っても、風が強くても、寒い冬でも、Fさんは郵便受けを開けに行きます。

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 私は、Fさんが「期待する人」であることに、心打たれました。たしかに、彼女は認知症かも知れないけれど、なにかを「期待している」のです。
 Fさんの庭には、ノラ猫もやってきます。娘さんが決まった時間に食べ物を置いてあげるからです。猫は食べ物を期待してやってくるのです。
 
 Fさんは、何も入っていない空のポストに「期待している」のです。毎日、十分ごちそうで養われ、娘夫婦の愛情に支えられ、何不自由のない老後生活で、それでも、Fさんは、「良い知らせ」があるかもしれないと期待しているかのようです。

 話を聞いて、何人かの人がFさんに、たよりを出すことにしました。
 宛先に自分の名前が書いている郵便物を受け取って、Fさんの喜びようは大変なものだったのです。
 娘さんに、「この人はだれ?」と何度も聞き、日に何度も手紙を取り出しては、封筒がボロボロになるほど見返しています。

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 人間だけが郵便受けを持っています。郵便受けに期待するんだ。と気がつき、私はFさんの行動にとても感動しました。
 どんなに大勢の人に囲まれていても、どんなに満たされていても、なお、期待する自分だけのポスト――それは、きっと生まれた時、神様が持たせてくださったのではないでしょうか。


全地よ。主に喜び叫べ。
大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。(4節)
立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。
立琴と歌の調べに合わせて。(5節)
ラッパと角笛の音に合わせて、
主である王の御前で喜び叫べ。(6節)
海と、それに満ちているもの。
世界と、その中に住むものよ。鳴りとどろけ。(7節)
もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。
山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。(8節)
確かに、主は地をさばくために来られる。
主は義をもって世界をさばき、
公正をもって国々の民を、さばかれる。(9節)







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2015年09月15日

Coffee Break詩編・155 主は聖である。王の力は、さばきを愛する。(詩編99編1節〜9節)



 主は王である。
 国々の民は恐れおののけ。
 主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。
 地よ、震えよ。(詩編99篇1節)
 主はシオンにおいて、大いなる方。
 主はすべての国々の民の上に高くいます。(2節)

 聖書がわかりにくいことのひとつに、神様がどういうお方かわかりにくいということがあると思います。
 みんな知っていることばなので、かえってわかりにくいのです。昨日も、テレビであるタレントさんが自分の経験として「神様に騙された」「神様ごっこは止めた」みたいな発言をしていました。この言葉でも現れているように、同じ「神様」という言葉を使っても、全く別物を語っている人は多いですね。たぶん、彼女の信仰には、その宗教の名前があるでしょうから、はっきり言ってくれるとまだわかりやすいのです。「○○教」「教祖は▼▲さんとかです。
 
 聖書の神様は、一言で言えば、「天地万物を創造された全知全能の方」ですが、もちろん、固有名詞はお持ちでありません。神ご自身の自己紹介を借りると「あってある者」となります。この世界をすべて有らしめておられる方なのです。
 同時に、ここで呼びかけられているように、神は「王」ですし、それも、すべての国々の民の上に君臨しておられる王です。
 今は王制は少なくなり、仮に存在する国でも、王は「君臨すれど統治せず」の制度がほとんどです。親しみは敬愛を覚えても、王を「おそれ」「ほめたたえる」「ひれ伏す」べき方であると思う人は少ないのです。しかし、もともと、ほとんどの国は王制でした。

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 国々の民よ。
 大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。
 主は聖である。(5節)
 王の力は、さばきを愛する。
 あなたは公正を堅く立てられた。
 あなたは、ヤコブの中で、
 さばきと正義を行なわれた。(4節)
 われらの神、主をあがめよ。
 その足台のもとにひれ伏せ。
 主は聖である。(5節)

 王は、強大な権力を一手に握っている人でした。とりわけ、王の仕事は、人間社会に、かならず生まれる人と人の争いを調停することです。つまり、「さばき」です。さばきがうまくできなくては、王は務まりません。王は戦争の決断もしなければなりません。戦うべき時に、「戦え」と号令ができなくては民に侮られるでしょう。本来、外国との紛争を調停してくれるさらに上の王がいればよいのですが、これは、今日の国連でもうまく機能していません。
 国内を裁くにしても、外国と戦うにしても,そのような判断は、大変むずかしいのではないでしょうか。正義や公正という「義」が必要になります。王自身が、間違いのない判断ができるような「聖さ」を維持していなければなりません。
 とはいえ、人間の王にとって、大義も公正も、聖さも多分に、「掛け声」です。じっさいは、人間が、完全に正しい判断を下すなんてできないのですから。

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 モーセとアロンは主の祭司の中に、
 サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。
 彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。(6節)
 主は、雲の柱から、彼らに語られた。
 彼らは、主のさとしと、
 彼らに賜わったおきてとを守った。(7節)

 神聖政治国家イスラエルでは、王は神なのです。モーセもアロンもサムエルも、神の御心を聞いて行った人たちです。
 完全に聖なる方、どのような間違いもなさらない、ほんとうの神が王ですから、このような賛美を、歌うことができるのです。

 われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。
 あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。
 しかし、彼らのしわざに対しては
 それに報いる方であった。(8節)
 われらの神、主をあがめよ。
 その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。
 われらの神、主は聖である。(9節)








posted by さとうまさこ at 10:25| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月16日

Coffee Break詩編・156 知れ。主こそ神。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ(詩編100編1節〜5節)




 詩編100篇は、詩編95篇から続く一連の賛歌の締めくくりです(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 その背景は、神によるバビロンからの解放と神殿の再建という事実の中に神の王国の世界的な性格を意識し、諸国に対して礼拝への招きを行なう。(同注解書P804)とあります。

 感謝の賛歌

 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。(詩編100篇1節)
 喜びをもって主に仕えよ。
 喜び歌いつつ御前に来たれ。(2節)

 こんにちの教会では日曜日ごとに礼拝をもつのですが、多くのクリスチャンが何にも優先して礼拝に参加するのは、それが「喜び」だからですね。奉仕をしたり、献金をしたりするのも、喜びだからです。喜び歌いつつ主の前に出て行くことができるのは、本来の姿ですね。
 礼拝の喜びは、心理学でいう「笑えば嬉しくなる」つまり、「動作が感情を誘発する」といったトリックのためではないと思います。

 歓びの理由があるのです。
「主こそ(わが)神」です。「イワシの頭も信心から」と言いますが、「イワシの頭を信仰する」ような信仰は、「ただ信じ込むだけ」です。私たちの神は、イワシの頭も含めて万物をお造りになった方です。何よりも、私(たち)に命を与えて下さった方です。

 知れ。主こそ神。
 主が、私たちを造られた。
 私たちは主のもの、主の民、
 その牧場の羊である。(3節)

 造られたものはすべてお造りになった方の所有物です。「彼」が信じる信じないにかかわらず、すべての人は、創造者がお造りになった被造物です。彼の両親がDIYで材料を買ってきて人型を作り、そこに「いのちの息を吹き込んで」彼を生んだのでないかぎり、創造者はべつにおられるのです。それが「主」です。

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 感謝しつつ、主の門に、
 賛美しつつ、その大庭に、はいれ。
 主に感謝し、御名をほめたたえよ。(4節)
 主はいつくしみ深く
 その恵みはとこしえまで、
 その真実は代々に至る。(5節)

 神が私にして下さったことを考えると、感謝と賛美が湧きあがってきますね。「主の門」や「その大庭」は、神様にお会いできる場所――神殿に入る大切な場所です。その先に聖所と至聖所があるとパウロも言っています。(Tコリント人への手紙3章16節)から、門も大庭も自分の心の中に存在しているのです。しかも、父なる神に取り次いでくださるのは、ほんとうの大祭司キリストです。

 この詩が成立したころの民(前516年頃)から見ると、一人ひとりの心の中に、至聖所があって、一人ひとりのために大祭司が、先だって父なる神に取りついてくださる状況は、きっと羨ましがられるような恵みですね。
 
 今では、ケイタイはすっかり普及して、誰でもその家族や受付を通さず、目的の人とすぐに電話で会話ができる仕組みが実現しています。
 でも、神様は、2千年も前に、神様と私たち個人個人が、主の聖所には行って礼拝することができる仕組みを、(何の功績もない)人類に与えて下さったのです。
 感謝!!!




 

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2015年09月17日

Coffee Break詩編・157 私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。(詩編101編1節〜8節)



 この詩は、ダビデ王が主の箱を迎える準備をしたときの歌と考えられるが、その喜びの状況が捕囚からの帰還と神殿礼拝の回復という現実の中で再現されて用いられている。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 つまり、ダビデ王の口を通して、捕囚後の共同体指導者の自覚を促している(同)、というのです。
 1節から4節は私的生活の覚悟、5節から8節は対人関係の心得の表明、です。

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 ダビデの賛歌
 私は、恵みとさばきを歌いましょう。
 主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。(詩編101篇1節)

 王は神の地上的代行者ですから、神と同じように、恵みを与え、さばきを公正におこなわなければなりません。そのような権威を王にお与えになっている、神(主)を、見上げてほめ歌を歌う王でなければなりません。
 信賞必罰ということばがありますが、この「賞」と「罰」は、王に都合のよい行いを基準に与えられるべきものではないからです。あくまで、神の御前に正しい者への賞であり、神に背く者への罰でなければ、ならないのです。その意味でも、いつも王みずからが、神を見上げていなければならないということではないでしょうか。

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 私は、全き道に心を留めます。
 いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。
 私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。(2節)
 私の目の前に卑しいことを置きません。
 私は曲がったわざを憎みます。
 それは私にまといつきません。(3節)
 曲がった心は私から離れて行きます。
 私は悪を知ろうともしません。(4節)

 ダビデが、私的生活において数々の間違いを犯したことは聖書にも記されています。代表的なのは、バテ・シェバ事件です。姦淫の罪を犯し、さらに相手の女性の夫を殺すという殺人の罪まで犯しました。
 また、娘タマルが異母兄アムノンに凌辱された時にも、何の手を打つこともありませんでした。それが、アブシャロム事件の引き金となったのは事実です。また、ダビデ軍の将軍で、ダビデの甥であるヨアブは、かなり私利私欲で動く策謀家でしたが、ダビデは彼の悪をしばしば見過ごしています。これも、後に、ソロモンに対するアドニヤの反乱の遠因になっています。

 王といえども、「家庭を治める」のは難しいことなのでしょうが、結局、家族にたいして,また自分にたいして、正しい「信賞必罰」を行なえなかったのです。

★★★★★

 それでも、イスラエルの王としてのダビデが、優秀で誠実な神の権威の代行者だったことは否定できないでしょう。
 神にたいする真実な信仰。王国が安定するまでの果敢な戦いぶり。敵となって自分のいのちを付け狙うサウル王にたいしても、「神から油を注がれた者にたいする敬意と愛」を失いませんでした。
 預言者に忠告された時には、真摯に耳を傾けて、自分の態度を改めました。

 ですから、彼には、いざとなると真実を尽くしてくれる友が大ぜい現れ、彼は天寿をまっとうしました。また、イスラエル王国を不動のものとして確立し、つぎのソロモンに渡すことができました。

 王としてのダビデの生涯は、つぎの詩と整合性を持つものだと考えられます。

 陰で自分の隣人をそしる者を、
 私は滅ぼします。
 高ぶる目と誇る心の者に、
 私は耐えられません。(5節)
 私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。
 彼らが私とともに住むために。
 全き道を歩む者は、私に仕えます。(6節)
 欺く者は、私の家の中には住みえず、
 偽りを語る者は、
 私の目の前に堅く立つことができません。(7節)
 朝ごとに、私は国の中の悪者を
 ことごとく滅ぼします。
 それは主の都から、不法を行なう者を
 ことごとく断ち切るためです。(8節)






posted by さとうまさこ at 09:56| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする