2015年09月18日

Coffee Break詩編・158 主よ。私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。(詩編102編1節〜17節)



 悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの

 主よ。私の祈りを聞いてください。
 私の叫びが、あなたに届きますように。(詩編102章1節)
 私が苦しんでいるときに、
 御顔を私に隠さないでください。
 私に耳を傾けてください。
 私が呼ぶときに、早く私に答えてください。(2節)
 私の日は煙の中に尽き果て、
 私の骨は炉のように燃えていますから。(3節)
 私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、
 パンを食べることさえ忘れました。(4節)
 私の嘆く声で
 私の骨と皮はくっついてしまいました。(5節)
 私は荒野のペリカンのようになり、
 廃墟のふくろうのようになっています。(6節)
 私はやせ衰えて、
 屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました。(7節)

 この詩人の嘆きの原因は何なのかしら、と考えるのです。
 ここまで嘆くのは、理不尽な不遇、社会的な抑圧や運命の残酷のただ中にいるからかもしれないと思うのです。

 たとえば、進学を諦めなければならなかったとしても、自分の成績が志望校の基準に届かなかったのなら、落胆の原因はわかります。急に父親が失業してお金のめどが立たなくなった場合もまずその原因に納得できます。
 しかし、入試にも受かり、学費も賄えて、その上、まじめに楽しく学生生活を送っていたのに、戦争で兵士に取られて学業を半ばで放棄しなければならず、帰国したときには、その学校さえなくなっていたら、挫折感は相当のものです。夫婦仲が悪くて離別し、家庭を壊す場合も、まだしも原因が自分にも思い当たる場合はよいのです。不慮の事故で家族を失ったり、戦争で別れ別れになって家庭が崩壊したりする時、人はその怒りをぶつける場所がないのです。

 とう考えても、自分に原因がないように思える不幸は、不幸の中でも最悪です。
 神さまを認めない者なら、「神も仏もない!」と毒づくでしょう。お酒に溺れたり、破滅的に生きたりするかもしれません。
 けれども、たまに言われるように、「落ちるところまで堕ちる」なんてことは、人間にはできないのではないでしょうか。
 人間には、幸せに平安の中にいたいという強い願望(本能)があると思うのです。

 そのとき、神を認めている人は、幸いです。
 「悲しむ者は幸いです。その人は慰められる」(マタイの福音書5章4節)のです。

★★★★★

 私の敵は一日中私をそしり、
 私をあざける者は私を名ざして毒づきます。(8節)
 これはみな、私が、パンを食べるように灰を食べ、
 私の飲み物に涙を混ぜ合わせたからです。(9節)
 それはあなたの憤りと怒りとのゆえに、
 あなたが私を持ち上げ、投げ出されたからです。(10節)
 私の日は、伸びていく夕影のようです。
 私は、青菜のようにしおれています。(11節)

 しかし、「神の選びの民」であった人たちでさえ、神に恨み言を申しあげるのです。
 神様が、彼を投げ出され、痛い目にあわされ、それゆえ、彼は、食べ物も喉を通らず、飲み物を飲めば、それがそのまま涙になって流れ出て来るような状態なのです。
 神様の厳しい措置に、ふと、なじってしまう「彼」にたいして、何が起こるかは、神を信じる者たちの多くが、経験しているのです。

 なぜ、彼の神はあのような不幸を放置しておられるのだろうか。
 なぜ、彼の神は自分の選びの民にあのような災難を下されるのか。

★★★★★

 神を恃(たの)みとする者は、さんざん敵に試みられた後、やはり神のふところに戻って行くのです。その意味で、苦難は、信仰が練られるためのチャンスであるのでしょうか。

 しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、
 あなたの御名は代々に及びます。(12節)
 あなたは立ち上がり、
 シオンをあわれんでくださいます。
 今やいつくしみの時です。
 定めの時が来たからです。
 まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、
 シオンのちりをいつくしみます。(14節)
 こうして、国々は主の御名を恐れ、
 地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。
 なぜなら、主はシオンを建て、
 その栄光のうちに現われ、(16節)
 窮した者の祈りを顧み、
 彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。(17節)






posted by さとうまさこ at 11:00| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月19日

Coffee Break詩編・159 あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。(詩編102編18節〜28節)



 苦しみにあえいで祈る「神の選びの民」は、苦しみのトンネルから抜け出すことができるのでしょうか。
 出来たのだと、思います。
 それは、泣き疲れてやがて眠り込み、目覚めた時には幾分元気になって、仕切り直しの気分を新たにして立ち上がった、といったことでしょうか。

 私たちは、苦しんで人に助けを求めると、何らの解答を得られるかもしれません。慰めの言葉や食事のもてなしや、その屋根の下で休むように言ってくれる友人もいることでしょう。お医者様に行けば、じっくり話を聞いてくれて、適切な薬を出してくれます。気持ちが落ち着いて、よく眠れる薬と、「彼は安静を必要としている」という会社あての診断書などです。

 薬を飲み、お医者様の勧めと勤め先の理解で仕事を休み、安静にしていると、癒される苦しみや悲しみも、たしかにあることでしょう。
 でも、医者や薬は望むべくもない状況に置かれることも多いのです。
 たとえば、今もニュースになっている「難民」です。難民には、食事やテントや薬が与えられても、たぶん、根本的な解決にはならないのでしょう。
 本当の解決は、彼らを、私たち一人一人が自分の隣人として受け入れて、自分と同じ椅子を与えてあげることでしょうか。でも、人間に、そのようなことができるでしょうか。
 たとえば、一年で50万人の難民を受け入れるとなると、日本のような豊かな国でもかなりの騒ぎとなるでしょう。

 ★★★★★

 捕囚を経験したイスラエルの民の絶望は、いわば難民の絶望ではないでしょうか。みすぼらしくて弱いだけでなく、人からそしられ、さげすまれるのです。後ろ楯になってくれる国家がないからです。
 
 できることは、祈りです。徹底的に惨めな自分を神の前にさらし、心を注ぎ出して祈るとき、自分の「思い違い」に気が付くのではないでしょうか。
 自分の身分を保証してくれる人間の国家はないけれど、イスラエルの民は、「神の国」の国民です。、彼らの王は、主――神ご自身であるのです。

 次のことが、後の時代のために書きしるされ、
 新しく造られる民が
 主を賛美しますように。(18節)
 主はその聖なるいと高き所から見おろし、
 天から地の上に目を注がれました。(19節)
 捕われ人のうめきを聞き、
 死に定められた者を解き放つために。(20節)
 人々が、主の名をシオンで語り、
 エルサレムで主を賛美するために。(21節)
 また、国々の民や、王国が共に集められるとき、
 主に仕えるために。(22節)

 この詩人は、目の前の災難から救い出されることなく、難民のまま死んでしまうかもしれません。でも、自分たちの王がだれであるかを思い起こすとき、「神の民」が滅びるなんてあり得ないと気が付いて、子供たちや子孫が、ふたたび神の都シオンで神の元に集う確信が持てるのです。

★★★★★

 主は私の力を道の途中で弱くされ、
 私の日数を短くされました。(23節)
 私は申しました。
 「わが神よ。私の日の半ばに
 私を取り去らないでください。
 あなたの年は代々に至ります。(24節)
 あなたははるか以前に地の基を据えられました。
 天も、あなたの御手のわざです。(25節)

 詩人は、いつしか、自分が経験している苦しみを嘆く代わりに、神が御造りになった世界の永遠に、思いを馳せています。
 自分だけでなく、この世界にあるすべてのものは、いつか滅びるのだと気が付いています。地や天でさえ滅びるというのです。ユダ王国が滅びたように、バビロンもペルシャも滅びるでしょう。捕囚生活も必ず終わりが来るのです。
 すべてが、滅びても変わらず立っているお方が、主・神です。

 これらのものは滅びるでしょう。
 しかし、あなたはながらえられます。
 すべてのものは衣のようにすり切れます。
 あなたが着物のように取り替えられると、
 それらは変わってしまいます(26節)

 もし、自分たちがその神の民、「神の選びの民」であるなら、と彼は歌うのです。

 しかし、あなたは変わることがなく、
 あなたの年は尽きることがありません。(27節)
 あなたのしもべらの子孫は住みつき、
 彼らのすえは、
 あなたの前に堅く立てられましょう。」(28節)

 このような視点で、自分が神の御手にある事に気が付いたとき、詩人の苦しみは消え去っていた、と思うのです。これこそ、ほんとうの神による回復です。人か人を助ける親切も、心や脳に働く薬も大切ですが、根本的な解決は、やっぱり神様を見上げることではないでしょうか。







posted by さとうまさこ at 10:13| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月20日

Coffee Break詩編・160 わがたましいよ。主をほめたたえよ。(詩編103編1節〜5節)



 詩編103篇は、思わず両手を天に広げるように気持ちになる詩です。

 ダビデによる
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 私のうちにあるすべてのものよ。
 聖なる御名をほめたたえよ。(詩編103篇1節)

 今月21日は敬老の日です。老人は社会を支えてきた人であり、敬われ、感謝されるべきですから、その気持ちを新たにし、記念しようということでしょう。 

★★★★★

 実際には、「老人である」ことを認めたくない人も大勢いるのです。
 ある民間調査によると、65歳以上でも、自分を老人と思う人は3.2パーセント、やや思う人は、8.9パーセント、どちらとも言えないと答えた人は、8.9パーセントと、七割近くが否定的だったそうです。これは、人生の「圏外」にいると定められているようで、抵抗があるのでしょう。どこかで、人生の「圏内」にいることを示す必要があるわけですが、実際に仕事もなくなり、体力もなくなって、死の準備が必要になると、老いを認めざるを得なくなります。否定的な側面から自分のポジションを輪切りにされるので、老人と認めたくない人が多いのでしょうね。
 けれども、この詩編を味わう舌の確かさにおいては、老人は若者よりはるかに上をいくのではないでしょうか。

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(2節)

 主の良くしてくださったことの数が、老人の方が多いし、その内容も重いのは確かでしょう。

 主は、あなたのすべての咎を赦し、
 あなたのすべての病をいやし、(3節)
 あなたのいのちを穴から贖い、
 あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、(4節)

★★★★★

 仮に高齢者の入り口である65歳であるにしても、65年間も生きてこられたのは奇跡ではないでしょうか。 歴史を通じて、70歳まで生きる人が稀だったから、古稀と言われたのです。さとうも、もう70歳を超えてしまったのですが、たしかに、ここにいるのは神様が多くを赦して下さり、多くの病をいやして下さり、危機一髪の出来事からを救いだして下さったからだと、思うのです。

 ちょっと振り返っただけでも、バスに乗っていて二度衝突事故に遭いました。路面電車で脱線事故にも遭いました。車で田舎道を走っていて路肩を外れ、一メートルほど下の休耕田に落ちたこと一回。もうあと三メートル先なら、谷底に落ちるところでしたから、まさに危ないところだったのです。いちいち覚えていないのですが、四つ角で出会いがしらに、ひやり、ということも多かったのです。
 神様の憐れみと恵み、そのみことばが、とても厚く重く積み上がっている年代、それがシニア世代ではないでしょうか。
 敬老の日に、シニアができることは、「自分は老人ではない」と思うことではなく、体験を語って、神様への感謝を若い人に伝えることかもしれません。

 (主は)あなたの一生を良いもので満たされる。
 あなたの若さは、わしのように、新しくなる。(5節)

 このような確信が持てる時、ほんとうに、老人の若さが鷲のように、新しくなると、詩編の作者は約束してくれています。






posted by さとうまさこ at 09:05| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月21日

Coffee Break詩編・161 わがたましいよ。主をほめたたえよ。2(詩編103編8節〜14節)



 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 私のうちにあるすべてのものよ。
 聖なる御名をほめたたえよ。


 詩編103篇は、最高の賛美の言葉で始まります。
 それから、神がたたえられるべき方である理由が、列挙されていきます。

 まず、主・神が、私たちの咎を赦し、恵みとあわれみでおおい、一生私たちを善いもので満たして下さると歌うのです。
 そのつぎに、主の恵みと憐みがどのようなものかが、語られます。

 私たちが全能者に願うことの一つに、正義とさばきがあるのではないでしょうか。虐げられるというのは、他方で「強者」が、横暴を行なうことです。力が足りないために、力のあるものに抑圧される様子は、歴史ドラマなどにしばしば出てきます。
 イスラエルの民にとって、不条理に抑圧された時代は、エジプトにおける奴隷時代だったのでしょう。そして、主・神は、エジプトでの奴隷状態から、イスラエルの民を救い出して下さった方なのです。

 天地をお造りになり、あらゆる生き物や人間をお造りになった主は、罪に堕ちた人間のために、さまざまな形で現れて下さっています。やがて、アブラハムを召命され、その子孫に対して、大きな祝福を約束して下さったのです。
 ただし、カナンを与えて下さるとの約束は、アブラハム、イサク、ヤコブ以降、四百年を待たなければなりませんでした。
 それは,イスラエルの一族が増える期間ではありましたが、同時に、彼らが奴隷生活を体験する帰還だったのです。それがあったから、イスラエル民族と、彼らの神との結びつきは、強固なものとなったのです。

★★★★★

 今、聖書を読む者には、すべては、主のご計画だったとわかるのです。捕囚期の民、捕囚から帰還したイスラエルの民が、この出エジプトの歴史を思い起こしても当然ですね。
 その深い深い主とのきずなを実感する時、わがたましいよ。聖なる御名をほめたたえよとの賛美が、迸るように彼らの口から出て来たと思うのです。

 主はすべてしいたげられている人々のために、
 正義とさばきを行なわれる。(6節)
 主は、ご自身の道をモーセに、
 そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。(7節)
 主は、あわれみ深く、情け深い。
 怒るのにおそく、恵み豊かである。(8節)

 主は、絶えず争ってはおられない。
 いつまでも、怒ってはおられない。(9節)
 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
 私たちの咎にしたがって
 私たちに報いることもない。(10節)
 天が地上はるかに高いように、
 御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。(11節)
 東が西から遠く離れているように、
 私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(12節)
 父がその子をあわれむように、
 主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。(13節)
 主は、私たちの成り立ちを知り、
 私たちがちりにすぎないことを
 心に留めておられる。(14節)






posted by さとうまさこ at 10:53| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月22日

Coffee Break詩編・162 主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。(詩編103編11節〜22節)



 出エジプトの時、イスラエルの民は主の大きな奇跡を見ながら、何度も主に背きました。同じように、せっかく立てていただいた王国で、イスラエルもユダも、神への裏切り行為を重ねました。
 王国時代を通じて、国が崩壊したのちも、イスラエルの良識ある人々の心には、自分たちの叛きの罪がいつも胸を噛んでいて、御前に悔改めたに違いありません。
 すると、気が付くのです。神様があわれんでくださっていることを。

 天が地上はるかに高いように、
 御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。(11節)
 東が西から遠く離れているように、
 私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(12節)
 父がその子をあわれむように、
 主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。(13節)
 主は、私たちの成り立ちを知り、
 私たちがちりにすぎないことを
 心に留めておられる。(14節)

 あわれみをかけて下さる時、神様は恵みも下さるのです。
 パウロが言っています。

 律法が入ってきたのは、違反が増し加わるためです。
 しかし、罪の増し加わる所には、めぐみも満ちあふれ ました。(新約聖書・ローマ人への手紙5章20節)

★★★★★

 人の日は、草のよう。
 野の花のように咲く。(詩編103篇15節)
 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。
 その場所すら、それを、知らない。(16節)

 神様が、私たちのはかなさと弱さをご存知であること、私たちがその罪を知って悔改めるかぎり、主のあわれみとめぐみが、とこしえまで続くと詩人は歌います。

 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、
 主を恐れる者の上にある。
 主の義はその子らの子に及び、(17節)
 主の契約を守る者、
 その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。(18節)

 十戒を結ぶ時点で、すでに主は、約束して下さっています。

 あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、私を憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、めぐみを千代にまで施すからである。(出エジプト記20章5節6節)

 大切なのは、6節です。めぐみを千代まで施してくださるとのお約束です。

★★★★★

 地上の王国を失っても、もともとイスラエルは天の王国の「王である神」の「選びの民」でした。
 それを思い起こすとき、捕囚生活の中であっても、苦しい神殿再建の最中であっても、イスラエルの民は、神を褒めたたえる喜びに震えたのではないでしょうか。

 主は天にその王座を堅く立て、
 その王国はすべてを統べ治める。(詩編103篇19節)
 主をほめたたえよ。御使いたちよ。
 みことばの声に聞き従い、
 みことばを行なう力ある勇士たちよ。(20節)

 同様に、イエス様の血で贖われた新約の民である私たちも、神の王国を見あげて賛美できるのです。

 主をほめたたえよ。
 主のすべての軍勢よ。
 みこころを行ない、主に仕える者たちよ。(21節)
 主をほめたたえよ。
 すべて造られたものたちよ。
 主の治められるすべての所で。
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。(22節)







posted by さとうまさこ at 10:06| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする